長野県の歴史を探し求めて

長野県内にある城跡・石造物などを探し求めそれらを紹介していきます。

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駒ケ根市  高見城

中沢郷の地頭 中沢氏(高見氏)の本拠

takamikozyou8.jpg
高見城と周辺の城館群                 国土地理院2万5千分の1地図使用


所在地・・・駒ケ根市              訪城時間・・・・0分

危険度・・・★☆☆☆☆(住宅地にある為、不法侵入とプライバシーの侵害に注意が必要)

訪城日
・・・2011年2月20日・6月12日・2012年2月12日



nakazawatakamisiro5.jpg

高見城は的場遺跡と白山城・香花社城・高見城を合わせて呼ばれている資料とそれぞれを分けて書いているものが

あるので、同じ集落内にあるが広範囲にわたる為それぞれ別の城館跡として紹介していきます。


         ~ 今回は・・・・・高見城から紹介します!! ~

nakazawatakamisiro5 - コピー
この図面に沿って紹介していきます。

この高見城の城主であったとされる中沢氏の出自について「前田家本神氏系図

及び神氏系図」によると中沢氏の始祖は諏訪敦真の嫡孫真重が中沢郷に本拠をもって中澤神太と号したことから始

まったとされているが、その他の古文書では真氏が中沢太郎を号したことから始まったと書かれている。


nakazawatakamisirro1 (3)
堀①を見る。

堀①は現状民家や水路となり見る影もないが、奥の家と水路の部分の高さの差の違いから堀であったことが窺える。



承久3年〈1221)頃、中沢太郎真氏は承久の乱において関東方に属し、その戦功によって出雲淀本庄地頭職に補せ

られ中沢郷を合わせて領すようになった。

嘉録3年(1227)5月、真氏が嫡男為真に宛てた譲状の付帯条件には「為真に子なき時は、弟に譲るべきを定む」と

出されている。この真氏の心配は的中し真氏が没して間もなく嫡男の為真も実子がないまま死去してしまった。

真氏・為真親子が没したのは安貞~嘉禎年間(1227~1238)の事と考えられる。

嘉禎3年(1237)為真の没後の遺領分配は、出雲牛尾の庄は次郎真直(真氏の次男)に中沢郷八ヶ村の内の四ヶ村

は四郎真光(真氏の三男)が継ぎ残りの中沢四ヶ村が為真の後家女子(為真の娘?妻?)に譲与された。

その後、後家女子に譲与された四ヶ村の内の中曽蔵村を後家の家子小次郎に与えたことから争いとなった。

この争いは幕府により中曽蔵三分の二は真直、三分の一は真光が納めるよう裁許の下知状が出されている。


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西城(郭①)の東側切岸を見る。

高見城の東側は、城下集落と街道があり桝形などの遺構が見られる。

東側の防御が不明であるが、堀①と堀②がこの道路にぶつかっていることからこの道路自体が堀跡の可能性がある。


正和元年(1312)7月中沢円性(真氏の次男真直の子)は出雲淀本庄を雑掌経範と地頭職を争ったが、幕府の裁許

によって、円性が勝って本領を安堵され以後、出雲で繁栄し南北朝時代には名和長年の募兵に加わり南朝方として

功績があった。

「高坂文書」には香坂宗たね宛に、

「小笠原殿国もちおう里よう被下候、今度郷の者七つ八つ一揆の組をたて申候、下条殿もくみに被成候如件」

      永享四年(1432)十一月 中沢衛門尉(花押)   

とあり中沢氏の名前が見える。      


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西城(郭①)の南東隅部、堀②に面して残る土塁跡

「諏訪御符礼之古書」の文明19年の項には、大祝継満と高遠の諏訪継宗等の総勢3百余人が諏訪総領家と同族争い

があり、この戦いで「中沢・高見討死候」とあり中沢氏は諏訪氏一族として戦いに参加していたことが分かる。

なお、高見氏については真氏の三男で中沢郷の四ヶ村を納めた真光が中沢氏総領として中沢郷高見に居住し高見氏

を名乗ったのではないかと考えている資料もある。後にも書くが天正期などになると中沢氏の名前は出てこなく

なり変わって高見氏の名前が多く出てくるようになることから中澤氏=高見氏との見方が濃厚かと考えられるの

ではないだろうか。

永享12年(1440)の結城合戦時の小笠原方の参戦した国人を編成した『結城陣番帳』の中の14番に中澤殿代とあ

り中沢氏の代理が参戦しているが、この時代に中沢氏の存在を知ることが出来る。


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高さ約4mの残存土塁を見る。

西城(本郭)の隅部に構築されていることから櫓台として使用されていたことが窺える。


戦国期の中沢郷は高遠頼継の勢力圏になっており、天文5年(1536)には頼継の弟蓮峯軒が高見郷を代表して

諏訪上社神使御頭神事の頭役で頭人を勤め、頭人を補佐する寄子に曽倉・大沼らを率いており蓮峯軒は高見に居て

中澤郷の支配に当たっていたことが分かる。

文明・長享年間にわたって展開された諏訪氏の内紛には、大祝派に与した高遠継宗に高見氏が従軍しており、

これは単なる血縁関係に拠ったものではなく室町時代以降進展しつつあった高遠氏を主軸とした地縁的結合が

中沢郷にも波及していたことが窺える。

この傾向が強まり高遠頼継の弟蓮峯軒による上記のような中澤郷の支配権が確立されていったものだろう。


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西城の残存土塁と西城(郭①)と外城(郭②)を隔てる堀②を見る。

武田氏の支配時代になると高見氏は中沢衆として見ることが出来る。

天正10年7月6日付中澤衆大草休斎及び同家中起請一紙(恵林寺文書)の中に高見孫兵門の名が見られる。

永禄3年(1560)上社権祝領に属していた高見郷は他の権祝領と共に武田晴信から安堵されている。また、

天正6年(1578)には高見新左衛門尉が高見郷の郷代官にとして武田勝頼が命じた諏訪上社の造営役の取りまとめ

をしていることが見られる。

高見氏は武田支配以前から権祝領高見の代官として、高見に限らず中沢郷での諏訪社に関係する在地の実務を行っ

てきた家柄であったことが想像でき、新左衛門と一緒に小使を勤めていた与三郎は新左衛門の近親者であったと

考えられる。


nakazawatakamisiro2.jpg
東側から見る堀②

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西側から見た堀②

堀②は西城と外城を分ける堀②は、現在生活道路として使われているが良く残っている方であろう。


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堀②から竪掘として下間川に向けて竪掘として落としている部分で、『堀』と呼ばれている場所である。

nakazawarakamisiro4 (5)
外城(郭②)を見上げる

郭②の外城と呼ばれる場所は、実質的な高見城の2の郭で堀②の底部から約4m上にある。


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外城の内部を見る。

郭内部は畑地となり細部は分からなくなってしまっているが、西側は小間川の断崖の要害地形で東側には一段下に

帯郭かと思われる神社地がある。

また、南側の台地続きには堀切が見られずそのまま的場遺跡と呼ばれる中世の城館跡まで続いている。

この的場遺跡が実質的な高見城の外郭であったかとも思われるが、別遺跡として後で紹介したいと思います。


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外城の帯郭と考えられる神社地

この神社地は道路より1~2mほど高くなっていて郭を形成していたように見える。


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街道から見た高見城(林がある所)

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小間川の対岸にある小山遺跡(中世屋敷跡)から見た高見城


住宅化に飲み込まれた高見城はいかがだったでしょうか。

県内にもこのように宅地化により僅かな遺構しか残さない城館跡が多く存在しており、この僅かな遺構を探し出す

のが大好きなのだ・・・・・・なんあんてね。

高見城周辺の遺跡は、遺構を残さず発掘調査で発見されたものが多いがこれらも存在していたことを皆様に知って

いただくために見ごたえは無いかもしれませんが記事にしていきたいと思います。

どうぞお付き合いください。



~参考文献~

山城探訪 上伊那資料編          (宮坂 武男)

伊那の古城 改訂版            (篠田 徳登     2010年)

駒ケ根市誌                (駒ケ根市誌編纂室  平成2年)

定本 伊那谷の城             (郷土出版社     1996年)

中沢史話                 (上伊那歴史研究会  昭和34年)




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  1. 2013/11/16(土) 19:46:49|
  2. 駒ケ根市
  3. | トラックバック:0
  4. | コメント:2
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コメント

度々失礼致します。

高見城の記事、ありがとうございます。

以前、中沢や高見姓の家があるのか母親に聞いたんですが
(母親も高見の城下町の出身なので)聞いた事無い・・・との事でした。

それにしてもこの地域、遺跡の宝庫ですよね。
この狭い場所にいくつも城郭(館)があり、興味がつかないです。

今後の記事も楽しみにしています。


  1. 2013/11/20(水) 22:10:24 |
  2. URL |
  3. 三日月堀 #-
  4. [ 編集 ]

Re: タイトルなし

三日月堀様

いつもコメントありがとうございます。
そうなんですか。。。。高見には高見氏がいないんですね知りませんでいsた。
この高見区には小規模な城館が点在していたようで、これらの主はやはり中沢一族と
見るのが妥当でしょうね。
高見城は、高遠氏の支配下にはいった時に改修さてたのではという資料もありますので
その頃の諏訪氏の内訌時に高遠の南方の防御として強化されたのでしょう。
これからも駒ケ根方面の記事を強化していきたいと思っていますのでどうぞお付き合いください。
  1. 2013/11/22(金) 20:19:28 |
  2. URL |
  3. ていぴす #-
  4. [ 編集 ]

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