長野県の歴史を探し求めて

長野県内にある城跡・石造物などを探し求めそれらを紹介していきます。

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松本市  平瀬南城

搦め手尾根を切り刻んだ竪掘は何を意識したものか。。。。

所在地・・・・松本市島内下平瀬下田                      訪城時間・・・・・犀乗沢入り口より30分

危険度・・・・★★★★☆(登り口滑落注意!)

別 名・・・・上平瀬城(信濃戦国時代史に記載)


訪城日・・・・2008年12月20日・2010年1月10日

hirase0101.jpg
平瀬城砦群と周辺の沢名・旧道・陣地伝承地

平瀬南城はかつて犀乗沢の北側山頂にある平瀬本城(北城)の支城として構築され平瀬氏により整備・管理され、

犀川の水運や犀乗沢沿いを通過する山田道を監視する為に存在してきたとされていた。

しかし、近年は天文20年に武田氏に攻められた平瀬城が、下平瀬にある川合鶴宮八幡社の境内がそれではないかという

新説が出されてきた。これは神社境内がかつての平瀬郷の中心地で千国街道にも近く、平瀬氏の本拠であった為に城に

籠った者204人(200余人とも)もの人たちが必死で抵抗し討ち死にしたのであろうとするもので、また山城の平瀬城では

狭く200人以上もの大勢が籠れない。平瀬城落城後に信玄が安曇郡攻略のための拠点として使用しており、攻める為に

いちいち山を上り下りしなければならず不便である。この二つを満たすのも神社境内にあった居館を改修した平城の平瀬

城の方が都合が良いというものである。

hirase3 (20)
犀乗沢が北沢と南沢に分岐する部分(平瀬城への看板があり)の突当たりが、旧山田道でこの分岐部分が平瀬本城と平

瀬南城への道の分岐でもある。


以前からこの山城の平瀬城の根小屋や平瀬氏の居館は麓の下田にあったと考えられてきたが、新説ではこれを否定し

下平瀬の川合鶴宮八幡社が居館であるとしてきた。これにより居館と山城は距離が大きく離れてしまい山城は平瀬氏の

要害ではないという事になり社地の居館が大きく改修され平城となり平瀬城と呼ばれたとされる。

hirase3 (15)
南沢最初の砂防ダム手前の斜面を直登する。(道は無い。)

hirase3 (16)
沢に接している部分の斜面は崖状になっており、その後も急斜面で道が無いので、滑落に注意が必要です。

では山城は誰のものであったのか。。。。。笹本氏や三島氏によると山城の平瀬城は、根小屋式の山城ではなく山城単独

に構築されたもので、犀川の水運・街道の監視のみの役割をもったただの押さえの城で、武田氏滅亡後に上杉氏に備え

て小笠原貞慶が築いたものではないかとしている。


古文書に見られる平瀬南城はどのように伝えているのだろうか。

「信府統記」には、「(前略)、城主分明ナラス、【古平瀬和泉守信義ト云フ人アリ、此辺ヲ領セルニヤ、松隠寺ヲ開基シテ、

今ニ法名モ残レリ、是犬養ノ一類タリシ、平瀬氏ナラン、右ノ(*平瀬本城のこと)両城モ彼ノ要害ナルへシ、其前後幾代ト云フ

コト分明ニ知レス、(後略)。】

「長野県町村誌〈中南信編〉」には、【村の艮、平瀬山、犀乗沢の南方にあり。東西十五間、南北二十間、回字形をなす。

往古平瀬和泉守居住せし由、土俗言伝ふと雖も、城名及其興廃、原由を詳にせず。】

hirase2 (3)
この図面に沿って紹介していきます。

「東筑摩郡誌」には、【本城の平東西八間、南北十五間、南北に堀切四通あり。往古仁科の分家犬飼氏の居城なりと

いふ。天文年間犬飼大炊介政徳爰に居る。天文十八年(*二十年の間違い)の秋武田の武将馬場信房来り囲む。

政徳既に中塔城に遁れ、城代戦没して城陥れり。】

とあり犬甘氏や犬甘氏一族の平瀬氏に関係する城跡であると伝えているのである。


hirase3 (3)
郭③を見る。

郭③は笹藪で詳細は見づらくなっているが、傾斜があり削平もされていないが手を加えたような跡が僅かに感じられる

ことから郭としたが、この尾根先が大手と思われるのでなんだかの防御施設があったものと思われる。


ここまで調べた結果、有名な研究者の方々はこの城跡は小笠原氏の築城で固まって来ているようであるが、伝承は本当

に間違った事を伝えているのだろうか?

そもそも。。。。。本当にこの時代に自分たちの兵力を大きく上回る敵が攻めてきて、平城とされる平瀬城に立て籠もるの

だろうか??・小笠原氏の一族で府中深志城を任されていた坂西氏ですら武田氏に降服しているのに小笠原氏の一族で

もない平瀬氏が何故防御が脆弱である平城に全滅覚悟で籠城するのであろうか?


hirase01 (2)
郭②は城内で2番目に大きな郭で、削平もしっかりされており大手側から攻めてくる敵に備えている。

郭の規模は15×6mの尾根の形を使用した細長い形状となっている。


hirase01 (4)
郭②から見た本郭

本郭は郭②から来るであろう敵に備え、切岸と土塁で防御を固めている。


この新説に関して疑問が3つほど湧いてくるのでここで挙げてみる。。。。。。。

①平瀬城が200人近くが籠るには狭いとされているが、その後に落城した小岩嶽城は落城以前に宿城が放火されていて

麓の本城と山上の要害のみとなっていたにもかかわらず、「妙法寺記」に書かれているが【(前略)、小岩嶽と申す要害を

責落しめされ候、打取頭5百余人、足弱取候事数を知らず候】と数に誇張があったとしても平瀬城の数倍の人が籠って

いたのに本当にそんなに多くの籠っていたのかの疑問に触れていないのが不思議である。特に要害部分の狭さは

平瀬城以上である。


hirase90 (2)
郭①(本郭)を見る。

hirase90 (6)
郭①に付属する土塁を見る。

本郭には東側(南沢側)を除いて土塁が構築されており、南側の堀切①に面した土塁が一番高くなっている。

なお、土塁の残存状況は良くなく西側土塁(国道19号側)は所々低くなっていて波打った感じになってしまっている。

形状は24×16.5mの楕円形である。


②平瀬城の城主とされる平瀬氏の開基である松隠寺は、平瀬氏の本拠とする河合鶴宮八幡社の館跡より山城の平瀬城

の方が近く、犀川をも挟んでおり遠すぎる。


③平瀬南城の尾根続きには、平瀬城を攻めた時に武田氏が陣を構えたと伝わる陣畑・御所山が存在しこれがもし本当で

あれば神社の居館を攻めるには高すぎて遠すぎる。(陣畑は近いうちに紹介します)

以上の3つであるが素人である自分には到底解ける疑問ではないが。。。。。一応挙げてみた。

どなたかこの疑問を解消していただける方はいるだろうか。。。。


hirase4 (3)
堀切①を横から見る。

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郭①の東側を防備する横掘

堀切①は竪掘として落とされる部分が角度を変え、郭①の東側切岸下を横掘となる。

横掘の先端はまた竪掘なり斜面を下っている。この横掘部分は平瀬本城にも一部見られる手法で築城者の共通性を

窺うことが出来る。


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城内最大の規模を有する堀切②を見る。

hirase324 (2)
堀切⑤を見る。

平瀬南城の搦め手側の尾根は大小5本の堀切により刻まれており、この城の防御の意識が搦め手側に向けられていた

ことが分かる。また、南沢側の傾斜が緩いために長大な竪掘となり最終的にはこれらの竪掘がまとまるという小笠原氏

の築城手法に多く見られる形となっている。


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南沢側中腹から見上げた堀切④⑤とそれぞれの竪掘

hirase324 (3)
堀切②③④⑤の竪掘が合流する部分を見下ろす。

私見として、もしこの山城の平瀬城が武田氏の攻めたものだとすれば平瀬氏が籠った頃には小規模な砦であり、武田氏

が後方の山稜を通過する山田道を使用して侵攻し、伝承にある陣畑・御所山を利用して平瀬南城を尾根続きから攻め下り

南城を占拠してこれを平瀬本城を攻める為の向城として活用した。


hirase5 (9)
堀切②③の堀切と竪掘を見上げる。

hirase5 (7)
竪掘①と堀切②③から落とされた竪掘の間には土塁を伴った郭が南沢から登ってくる敵に備えている。

平瀬本城は、犀乗沢を中を通る山田道側(大手)と山稜を通る山田道(搦め手)とから攻められた本城にいた城兵たちは

逃げる事が出来ずに全滅してしまった。

後に小笠原貞慶がこの平瀬城砦群を改修する際に、平瀬城の搦め手から攻められ落城した弱点を克服する為に、尾根

続きを堀切で切り刻む手法を使用した。。。。。。。。。。というのはいかがでしょうか。


hirase012 (2)

hirase012.jpg
堀切⑤から落ちて来た竪掘の脇に削平された場所があり、水がたまっている。これが水の手の一つとおもわれるが、

南沢との比高差もほぼ無いので、沢から水を汲んだ方が早い気も。。。。。。


hirase5 (10)
斜面に刻まれた竪掘。。。。。惚れ惚れします。。。。!

hirase3 (6)
平瀬南城から平瀬本城を遠望する。

私見を前提とすると平瀬南城が武田氏に攻められ落城する場面や南城から後方山頂にある陣畑にかけて大量の武田兵

が駐屯するさまをみた本城の兵士たちは絶望のどん底に落とされたことであろう。


hirase3 (17)
平瀬南城を遠望する。

いかがだったでしょうか。

私見はあくまで素人の妄想ですので、研究家の方達の研究を否定するものではありませんのであしからず。

でも中々謎に包まれた楽しい城ですね。。。。これから研究が進むことを期待します。

次回は平瀬本城をお送りいたしますのでお楽しみに!!!


*冬季は猟師が入っていることがありますので注意が必要です。


~ 参考文献 ~

信濃 第45巻 第11号  山城平瀬城特集             (信濃史学会  平成5年)

信濃の山城                               (小穴芳実著  1988年)

信濃 第61巻 第1号  「長野県松本市城山丘陵の砦伝説について」   (小原 稔著   信濃史学会発行)

東筑摩郡誌                                (信濃教育会  1919年)

信府統記                                 (国書刊行会  平成8年)

松本市史  第ニ巻歴史編                      (松本市     平成8年)
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