長野県の歴史を探し求めて

長野県内にある城跡・石造物などを探し求めそれらを紹介していきます。

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松本市  平瀬本城

多くの戦士が滅んだ城

zinnbata0975 (3)
平瀬城郭群の配置図                         国土地理院2万5千分の1地図使用

所在地・・・・・松本市島内                                 訪城時間・・・・・20~30分

危険度・・・・★★☆☆☆(冬季は狩猟のためにハンターが入るので注意が必要!)

訪城目印・・・・・国道19号沿いに城址入り口の看板がある


訪城日・・・・2008年12日8日・2014年3月27日(写真は2回の訪城時の写真を混ぜて使用)

zinnbata0975.jpg
この図面を参考に紹介していきます。

~ 出丸(出郭) ~

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登城路を登って行くと左手に明らかに人の手によって構築されたと分かるシルエットが見えてくる。

現在の松本市北部と安曇野市周辺にあった住吉庄は、幕命により小笠原氏の所領となり住吉庄に勢力を持っていた西牧

氏や平瀬氏などは小笠原氏の支配下に組み込まれていったようで、永享12年(1440)に下野国で起った結城合戦では

守護小笠原政康は犬甘氏や平瀬氏・西牧氏を率いて出陣している。


hirasehonnzyou1 (7)
出郭ながら郭の規模は大きく、削平も丁寧にされており三段からなっている。

文明3年(1481)大塔合戦いらい『古敵当敵』(昔も今も敵)の間柄であった仁科氏(此の時の当主は長朝)が穂高で戦い

小笠原氏が仁科氏を破り、仁科氏を配下に加える事に成功し婚姻関係をもって懐柔するとともに仁科一族を古厩・堀金・

鳥羽・吉野・熊倉等への進出を認め、これらの地域に進出した仁科一族の丸山氏らを平瀬氏の寄子として組み込んだ。


hirasehonnzyou1 (5)
この出郭の構築された意義といえば、真下に存在する犀乗沢沿いを通過する山田道を対岸に写っている平瀬南城と監視

をしもし敵が通過すれば協力して挟撃する役目を担っていたのであろう。


平瀬城が天文20年に武田氏により落城し、城主ら204人が討ち死にしたがこの名に寄子である丸山氏が含まれていた。

『吉野の堀屋敷にいた丸山丹後守家の系譜』によると、丸山肥後守 → 丸山兵庫守 → 丸山丹後守 となっていて、

丸山氏は生坂村丸山の出身で兵庫守の時に平瀬氏の寄子となっている。

丸山兵庫守が吉野に移住した時期は現在豊科中心部にある法蔵寺が平瀬養老坂の寺坂から現在地に移動する永正3年

(1506)以前(明応年間か?)と寺伝では伝えている。


hirasehonnzyou01.jpg
出郭から登山道を辿ると、山頂にある本郭の虎口に至る。

この登山道は往時の城道を世襲しているようで、虎口にいたる道の周囲には小規模な削平地が見られ、虎口も城内側が

優位になるように坂虎口となっていて、小規模ながら土塁と石積みが見られて防御を厳重にしている。


丸山氏の系譜では、兵庫守の事績として『明応年間中、平瀬城を建て入部、武田と桔梗ヶ原で戦って討死』とあるが、平

瀬氏の寄子が平瀬氏の城を築くはずはなく築城か改築を手伝い、城番として平瀬城に入っていたものと思われる。

また、桔梗ヶ原で討死は天文20年の平瀬城の落城での討死の間違えであると思われる。

兵庫守の子である丹後守には、『平瀬城に居て永正年間中法蔵寺を吉野郷に創建、天文21年桔梗ヶ原の戦いに敗れて

和州(大阪)へ退去、永禄5年卒』と書かれており、これも丹後守が平瀬城の城番をし、天文20年(21年は間違え)に平瀬

城の落城に遭い父親の兵庫守と違い生き抜いて和州(大阪)へ落ち延び永禄5年(1562)に亡くなったものと考えられる。

(後に書くが、丹後守の子政勝【政勝も後に丹後守を名乗ったようである】は府中小笠原氏の元に戻っている。)


~ 郭① ~

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虎口を入った郭①を見る。

郭①は高さ1.5mほどの土塁により東郭と西郭に分けられている。また、土塁には石積みのような物がみられるが往時の

石積みか近世になって郭①は開墾されたようであるのでその時に出た石を積んだのかは判断が出来ない。


丸山氏が平瀬城の落城時に何故城内にいたかといえば、もちろん丸山氏が平瀬氏の寄子であったからであるが、(寄子

とは小笠原氏に従ったが丸山氏の管理を平瀬氏に任せ、平瀬氏の配下として丸山氏には小笠原氏同様に平瀬氏に忠勤

をはげみなさいよ。。。という感じ。)

新説である平城の平瀬城に落城することが分かっているのに本拠防衛を思う平瀬氏が直属の部下と籠るのは分かるが、

寄子で本拠地に戻れば領主となる丸山氏達が本家の仁科氏が武田氏に従っているのにわざわざ平瀬氏に付き合って滅

亡する道を選ぶのであろうか?

(この寄子の中で飯田右馬允というものがいるが、この飯田氏も平瀬城攻めには平瀬城に丸山氏同様に籠城したはずで

あるが、丸山氏が討ち死にしたり逃れて和州に逃れているのに、飯田氏は平瀬城落城後も本拠地の飯田館に居る事を

考えると寄子の中でも平瀬城攻撃前に武田氏に降った者がいる可能性が考えられる。)


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郭①の土塁を隔てた西側の郭は2段に分かれており、所々の縁部に土塁跡と思われるような高まりが見られる

『豊科町誌」には、武田軍の攻撃の主力は大手(前面)の方向から行われたものと思われるが、一部の兵力は背後の

神沢・山田方面から犀川丘陵の峰伝いに来襲し、搦手から攻撃をくわえたように思われる。そして徹底的にダメージを与え

ており204人の打ち取りとなったもののようである。

『二木家記』も『犬甘の城(犬養山)を馬場民部甲斐国よりなあkりある者ども、その上信州衆晴信方にまかり成り、一手に

なって攻め落とし、それより平瀬の城へ取り掛かり攻め落とし、平瀬殿も城にて打ち死に申され候、人数多く討ち死に仕り

候』としている。


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西の郭の上段から下段の郭を見下ろす。

山家氏などはその居住地(松本市入山辺)からして搦手からの攻撃軍に加わったようで次のような感状が残っている。

『今度平瀬城において頸壱つ、平瀬八郎左衛門打ち捕らるの条、戦功の至り、一段と感じ入り候、然らば弥々忠信を抽ん

でらるべく候、恐々謹言      天文廿亥辛年十月廿四日    晴信       山家左馬允殿

とあり、前回紹介した陣畑や口伝も本当のことを伝えていたのではないだろうか


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郭①西郭の下段北側には、尾根先端部に設けられている規模の大きな帯郭もしくは本郭の一部か(郭②)。。。に降りる為の虎口が設けられている。

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尾根の先端部から登ってくる敵を最初に迎撃すべく構築された郭で、ここを馬出としている研究者もいるが、ここからの

出撃路があるようには思えず、もし尾根先端から攻められたら・・・・という恐れに対する防御施設であろうと思われる。


平瀬氏や部下・寄子達は武田軍が攻めてくるので平瀬城に籠り犀川方面から攻めてきたら、南城と共同で戦闘を行い

戦況があやしくなったら尾根を伝って逃げようと考えていたが、武田軍が軍をニ分して尾根伝いの山田方面からも攻めか

けてきてしまった為に逃げ場を失い全滅覚悟で戦う羽目になり204人もの戦死者を出してしまったのであろう。

当時の平瀬城は郭①②と何本かの堀切程度の小城であったと思われ、武田軍との兵力差を考えれば1日での落城は

よく頑張ったほうなのではないだろうか。


hirasehonnzyou01 (18)
郭①から見た眺望

この眺望を見ればこの城の役割が良く分かるであろう。


山城の位置は、平瀬氏の本拠である平瀬郷からは確かに場所が偏っているが、寄子達のいる現在の豊科周辺までも

管理しなければいけなかったと考えれば、この山城からは平瀬郷・豊科などが一望でき管理には都合がよく平瀬氏の

本拠が平瀬本城である可能性が強いのではないだろうか。


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郭①の東郭は、城内で一番広いもので城主や番兵の居住空間であったものと思われる。

過去に耕作がされたと言われているので、往時同様になっていたかは分からないが、尾根続き側の郭端には土塁が残り

南側郭端には石積みが残されいる。(石積みに関しては石塚のようなものや土塁壁面・郭端などに見られるが、耕作時に

でた石を積んだだけという可能性も捨てきれない。)


hirasehonnzyou01 (10)
郭①尾根続き側に残存する土塁上にある鎮魂碑を見る。(碑の裏面には平瀬城陣歿者之霊と刻まれている。)

この鎮魂碑は、城下の下田で防火用水の池を掘ったところ、石で囲んだ墓の中から首が5つと銭が出て来たので、城山に

鎮魂碑を建てて現在も慰霊祭をしているようである。


寄子として平瀬城籠城で父親の兵庫守を亡くした丹後守の子(丹後守の子は政勝といい、天文10年出生で父と共に和州

に退去して信長に出仕し天正5年に信州に還住して天正10年に信長より吉野郷の禁制をうけ信長滅亡後は小笠原氏の

配下となり天正18年小笠原家より感状をもらう。後に石川家の代官となり元和元年9月8日卒す)

は天正18年(1590)に豊臣秀吉が小田原の北条討伐を始めると、小笠原貞政は秀吉の命により出陣し丸山丹後守

(政勝)は留守を命じられており、この時にこれまで平瀬氏に対して代々の忠節によって寺所・吉野両郷の中に50貫文の

地を出し置くので、いよいよ戦功を抽きんじてほしいという文書を小笠原貞政からもらっている。


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本郭から見下ろした堀切(籔だけど。。。)

本郭と堀①との低さが約7~8mほどの高さで、切岸が鋭く防御が厳しくなっている。


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堀①を見る。

堀①は幅が広いものの深さが無く、本郭の防御は切岸に頼った造りになっていて、このあたりは平瀬氏時代にもこのよう

なものであったと思われる。


『追って今度陣中つゞけの儀、油断有るべからず候、以上     平瀬代々の忠節浅からず候、然らば別して奉公せしむ

べきの旨候の間、吉野・寺所両郷において、合して五拾貫文の地を出し置き候、この旨をもって戦功を抽きんずべき事

肝要候者なり、仍って件の如し       天正十八年正月廿五日 (黒印)       丸山丹後守殿』

とある。

丸山氏以外にも平瀬氏の寄子として考えられる者として、熊倉の代官である丸山出雲、下野・鳥羽の丸山管三、飯田の

飯田右馬允、竹内筑後、中曽根の四郎右衛門尉などが見られる。


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本郭から郭③の間の尾根には大小4本の堀切と複数の竪掘が掘られており、執拗に防御を固めている。

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尾根の斜面には美しい竪掘のシルエットを見る事が出来る。

城下の下田には逢沢姓が多いが、この逢沢氏の故地は甲州のようで移住を命じられてきたものらしく、『高白斎記』による

と平瀬城攻略後『二十八日に午刻巳の方向に向かって平瀬城を割り、その上鍬立、(中略)十日原美濃守を平瀬に在城

仰せつけらる』とあり、小岩嶽城攻めの前線基地として逢沢氏らはその配下の在城衆であったものと思われる。


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郭③は尾根の形状に沿って不規則な三角形をしている。

ここの郭は郭④から①の間での中間の防御拠点としての役割と城兵の居住地との郭であったと考えられる。

この郭の特徴として郭の北側下に横掘が構築されており、南城との共通性を見る事が出来る。


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郭③の北側下にある横掘を見る。

横掘はほぼ埋まってしまっているが一部は残存し、横掘の端の両側は竪掘として落とされている。


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横掘から落とされた竪掘を見る。

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郭③から見下ろした堀⑤ 

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堀⑤を横から見る。

堀⑤は上幅20m・深さ10m程の城内最大の堀切で両側を竪掘としておとしている。

この先には郭④と堀⑥があるが、この堀が尾根続きで最大の防御施設として構築され、ここで敵を食い止めるという、

強い意志を窺わせる巨大なものとなっている。


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郭④を搦手側から見る。

郭④は高さ1m程の土塁で周囲を囲むように造られた郭で、搦手側に対する馬出ではないかと考えられている。

この馬出説を否定する説もあるが、武田氏が搦手側の山田道から攻めてこの平瀬城を落としたのが本当であれば、落城

させた武田氏・その事実を知っている小笠原氏がこの弱点を放置しておく筈はなく、ここに防御拠点・出撃拠点を設けるの

は自然なことであったのではないだろうか。


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堀⑥の竪掘を見る

城内最後の防御施設である堀⑥は、掘り切らずに土橋としており、防御のしやすさと出撃のしやすさを兼ね備えたように

なっていて、竪掘部分は防御のために幅が大きくなっていて、敵の斜面移動を警戒している。



以上、平瀬城を長々と(汗)紹介してきたがいかがだったでしょうか。

平瀬城と平瀬南城との共通性を見出すことが出来、武田氏の改修の痕跡は窺い知れず分かるのは小笠原氏の

改修が大きくされたであろうことであろうか。

山田道を敵に使用されれば、簡単に岡田方面に抜ける事が出来直接に府中(深志)に到達してしまう事から、小笠原氏

が重要視したものであろう。

武田氏が攻め落とした平瀬城はどこか?。。。。。。。。。。。。。。。証明する事は難しいであろう。



~ 参考文献 ~

信濃の山城と館   松本・塩尻・筑摩編          (宮坂 武男)

豊科町誌                            (豊科町誌編纂委員会)
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  1. 2014/09/10(水) 20:02:29|
  2. 松本市
  3. | トラックバック:0
  4. | コメント:2
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コメント

初めまして。
突然のコメントを失礼します。

地元の山城や館跡を見て回るのが好きで、
いつもブログを拝見しています。

平瀬城は登った事があったのですが、
主郭1から続く連続する堀を見に行こうとして急斜面を降りきれず
悲しく戻ってきた思い出があります。

その事を思い出しながら、様々な資料と合わせての貴殿の詳しいブログを読んで
もう一度登った気分に浸らせて頂きました。

私は1人で登っている事が多いので、
これからも無理せず山城、館巡りを楽しんで行こうと思っています。

お仲間と呼ばせて頂くには恐れ多いのですが、
どうしてもコメントしたく書き込ませて頂きました。

これからもブログ楽しみにしています!
  1. 2014/10/14(火) 22:26:51 |
  2. URL |
  3. 黒曜石 #Y03HSa9w
  4. [ 編集 ]

Re: タイトルなし

黒曜石さま返信が遅れてしまい申し訳ございませんでした。
私のような拙いブログを見ていただきありがとうございます。
城跡探訪が趣味の方は皆様が御仲間であり同胞です。
しかし、現在の山城ブームでの浅はかにも険峻な城跡へも訪城する危険性を考えずに訪れたり、また、歩き回る城跡への破壊や私有地への無断侵入での近隣や子孫への迷惑行為などは将来侵入禁止になる可能性などの研究者への迷惑行為は本当に迷惑で本来ならば一過性に終わらせてはいけない物なのに本当に研究したい者への障害となっております。
黒曜石様のように一所懸命訪城されている方達への障害とならない事を願っております。
また、もし何かお困りがございましたらご連絡ください、道案内などご協力させていただきます。
では良き城跡ライフをお送りください。。。。。。もう少しでシーズンインですので!
  1. 2014/10/18(土) 19:20:48 |
  2. URL |
  3. ていぴす #-
  4. [ 編集 ]

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