長野県の歴史を探し求めて

長野県内にある城跡・石造物などを探し求めそれらを紹介していきます。

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松本市   中塔城①

地形を生かして築城した天然の要害

所在地・・・・松本市梓川梓中塔

訪城時間・・・・・1時間~1時間30分程度(登る道による)

危険度・・・・★★★★☆

訪城日・・・・2012年9月8日(『らんまる攻城戦記』の管理人らんまるさんと訪城) ・ 2013年12月1日(再訪)


所々危険な場所はあるものの道は明確で迷うことはない。しかし、山奥にあるために熊などに注意が必要


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中塔城周辺の史跡                                国土地理院2万5千分の1地図使用

*『桜はざま』はいつも拝見させていただいている『安曇野ガザ日記』の管理人であられる『かから様』が確認された城郭

遺構(南安曇郡誌に記載があるという)


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訪城経路(再訪時)

~ 中塔城の立地 ~

中塔城の麓にある中塔集落は、南黒沢と北黒沢によって周囲の集落と隔てられた地形となり、これらの沢を天然の堀とし

て利用し集落自体を宿城(根小屋)としていた。また、北黒沢と南黒沢の合流する地点の台地先端部には尖屋敷と呼ばれ

る城主の居館と考えられる跡が残っていた。(消滅)

中塔集落は中塔城のある金比羅山から張り出した北尾根と南尾根囲い込まれて守られるように存在し、集落の西側、

北尾根と南尾根の間を俵窪と呼ばれ城へ食料などを運び込む道があったとされる。

中塔城は金比羅山(標高1256m)からさらに奥のピークへの広範囲へ遺構が見られ、城自体も北黒沢と北黒沢に挟まれ

ている厳しい地形上に構築された城である。


~ 登城路 ~

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初回の訪城(らんまるさんと)は俵窪の堀状の道を登り、南尾根へ出る道をたどった。

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再訪は、東電の高瀬川線NO,82鉄塔巡視路(南尾根)を登った。

~ 歴史 ~

『長野県町村誌』には『(前略)、天文の頃小笠原権之丞住居の地と言伝ふ、然れども旧記等不伝、故に事跡不詳、今に至り土を

うがち古城具等を得ることあり。 』とある。

現在では、武田氏に府中を追われた小笠原長時が村上義清の力を借りて府中回復を目指すが、長時に無断で義清が坂城へ

引き上げてしまい失意にくれた長時は、武田方と一戦(野々宮合戦)し勝ったことを機に自害をしようとしたところ家臣の二木氏が

『拙者がこのごろ妻子を置いてある所は中洞(塔)小屋といって、いちだんと堅固な地に城郭をこしらえ(後略)。』

とあることから二木氏の詰めの城ではないかとされてきた。


~ 南尾根 ~

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南尾根を鉄塔の巡視路を登っていくと、尾根の弛みの先端にある鉄塔に着く。(写真)

ここまでは鉄塔の巡視路を登る分には距離はあるものの道がきれいで登りやすい。しかし、この先からは道はあるがこの地に

城を築いた意味が分かるほどの険しいものとなる。


しかし、本当に二木氏の城なのだろうか?

二木氏の本拠である地からは直線距離でも約5kmほどもあり、間には岩岡氏や宮高氏・長尾氏・中野氏などの領地がある。

一豪族の二木氏がこれらの豪族の領地を挟んで詰めの城など構築・維持することができたのであろうか?

それは通常、不可能なことなので中塔集落に佐渡屋敷(岩岡)
などがあることから小笠原氏領地内に設けられた山城を持

たない周辺土豪が共同で管理する城郭であったのではないだろうか。

『溝口家記』では籠城中の城主を小笠原貞保としていることからも小笠原氏が管理する城郭であったことが考えられるのである。


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城跡遺構の説明範囲                 信濃の山城と館の図を参考に現地調査をもとに作図

中塔の歴史を見ると、西牧氏が地頭として西牧の郷を治めており西牧郷は小倉までの範囲であったので初期の中塔は西牧氏が

治めていたことが分かる。

この頃に中塔に城があったかは分からないが、建武2年(1335)頃に小笠原氏が住吉荘を治めるようになると中塔城主と言われる

二木氏が出現してくる。


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この図に沿って紹介していきます。

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南尾根に見られる堀切

南尾根を登っている道は、この堀切の脇を通っているが道の下側には竪堀があり道の幅を狭め防御している。

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南尾根と北尾根の合流地点へと続く道を見る。

道が堀状になって登っており、写真の上部は郭が構築されていて頭上からの攻撃を可能にしている。

また、この堀状の道を登り切れば尾根の平坦地(城内)となることから、城内手前には城門のような施設があったのかもしれない。


籠城中の中塔城については『二木家記』には武田晴信や三村十兵衛が攻めかけてきた事や逆に西牧氏の北条城に攻めかけた

事。小笠原憩安(定政)が晴信の使者として降伏を進めてきたことが書かれている。

しかし『高白斎記』『勝山記』などの武田方の資料には出てこないことから、武田方では府中を失った小笠原長時の中塔城籠城を

すでに資料に残すほどの出来事とは見ていなかったものと思われる。


~ 北尾根の防御 ~

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北尾根を登っている登城路とそれを防御するための郭

尾根の上部(城内)への道は堀状になっており、こちらも城門などの防御施設が考えられる

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北尾根でも城内に近い場所には、写真のような大きな郭が段々のように北尾根上から俵窪上にかけて構築されていて、北尾根・

俵窪から攻めてくる敵を想定して構築していることがうかがえる。


『二木家記』にはその後、天文22年まで籠城をし二木氏は小笠原長時と共に川中島草間に行き、約2年間越後に滞在したこと

等を書いている。

ただ、『溝口家記』では小笠原中務少輔を城主に据え半年ばかり持ちこたえたとしており、これが本当のことだと思われる。

何故なら、周りの支城(平瀬城・小岩嶽城)が落とされてしまっては中塔城が包囲されることになり逃げ場を失う可能性が高くなる

ことが考えられるので『溝口家記』が正しいと考えられる。


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北尾根に構築された二重竪堀を見る。

中塔城では明確な堀切というものが無く、登城路の脇の土塁状の尾根を堀切、道下の斜面の下に竪堀を掘って道を狭める手法

をとっているのが大きな特徴で、地形をうまく活用しているように感じる。


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登城路を狭め、敵の移動を制限していることが分かる。

その後の中塔城は、二木氏や小笠原氏が去った後は武田氏の支配地域に入ったものの、城は周辺の土豪が管理していたものと

考えられ、天正10年(1582)、武田氏が衰退し織田氏が信濃に進出してくると西牧氏などの土豪は武田氏を見限り勢力の挽回を図

るために木曽氏に内通することで賭けにでたものと考えられる。

中塔城関係では、岩岡佐渡・織部も武田氏と関係を切り岩岡郷周辺の者を引き連れ中塔城に立て籠もっている。

そこで深志城からは中塔城へ兵を出して上野原や黒沢馬場(中塔集落)などで競り合いを行い、中塔城からも細萱氏の館へも

攻めかけたりしている。その中に岩波平左衛門(二木氏一門)も中塔城へ籠り、西牧氏と協力して神林などを焼き払っている。

『岩岡家記』


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北尾根の登城路を見る

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北尾根に残る竪堀

北尾根にはいくつかの小規模な竪堀が見られ、細尾根での敵の斜面移動を制限している工夫が見られる。

また、竪堀が多いのは北黒沢側が多く、こちらには武田晴信が戦勝祈願をしたと伝える黒沢不動があることから武田氏はこちら

側から攻めた可能性が考えられる。


鳥居峠の戦いで武田勢を下した木曽・織田勢は、その後深志城(現松本城)を攻め、城将馬場美濃守を退去させている。

これに先立って古幡伊賀等は、深志城内の二木・横田等を退去させ、二木氏を中塔城へ移らせている。(岩岡家記)

この後木曽義昌は深志城へ入っている。


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尾根の先端部(鉄塔)まで小規模な段郭が登城路に沿って構築されている。

防御の柵が構築されていたのであろう。


その後、各地を放浪していた小笠原長時の子である貞慶は府中回復を目指し、西牧の金松寺へ現れ旧臣を集めている。

その旧臣の中に二木氏・岩岡氏・岩波氏等がおり、それらの旧臣を率いて織田信長へ引見を願いでた。

だが、信長に相手にされず失意のうちに京都へ去っている。

しかし、そのまま置き去りにされた旧臣たちは織田氏により深志城主とされている木曽氏との関係が悪化してしまい、旧臣たちは

しばらくの間、中塔城へ入り籠城している。そして木曽氏の家来の古幡氏と西牧氏(武田氏没落時に木曽氏に内通している)

は小室原等で小競り合いをしている。

『岩岡家記』は9日間取り合いをしたと書かれており、『二木家記』には20日間余り中塔城へ追い上げられたといっている。

その後、旧臣たちは木曽氏に人質を出し許されている。


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北尾根の先端部は鉄塔建設により詳細は分からないが、麓の中塔集落からの道が通じておりこの辺りにも防御施設などがあった

のではないだろうか。


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城跡で鉄塔を下から眺めるのが好きなんです  !(^^)!

その後の歴史に中塔城が出てこないので織田氏が滅び、その間隙をぬって復帰した小笠原貞慶により府中周辺を平定された

事により安定し、中塔城の存在意義が薄れていったものと思われる。

ただ今回、中塔城主とされる二木氏の領地から離れていることや、中塔城の歴史の中で周辺の土豪が立て籠もっている事実から

中塔城の管理をを周辺土豪での共同管理であったとの考えたが、天文3年(1534)の小笠原家譜代の家臣分限帳に『二木豊後守

重高』「(前略)、安曇郡二木村の城主、後、同郡中洞の城主となる。(後略)」とあることも事実で。。。。

本当のところは分かりませんね。


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北尾根の登城路(こちらも堀状になっています)

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現在のご城主さまにご拝謁できました。
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  1. 2015/05/26(火) 04:43:59|
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