長野県の歴史を探し求めて

長野県内にある城跡・石造物などを探し求めそれらを紹介していきます。

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安曇野市  二木氏

出自が謎な小笠原氏の重臣

今回は現在の安曇野市豊科の一部(住吉庄の一部)を支配した二木氏について調べてみたいと思います。

ただ素人ですので色々な資料に出てくる二木氏の事跡を時系列に並べる程度しかできませんが。。。。

この後に二木氏の居館跡などを紹介する関係で避けられないので、お付き合いください。




~ 出自について ~


小笠原貞宗は足利尊氏に随い信州各郡に北条に与力する武士を討伐し、その戦功として建武2年9月尊氏の判を以て住吉庄

の地頭職を与えられた。

※元々、住吉庄南部は西牧氏が地頭職として勢力を広げていたが、北条方として参戦したために勢力が衰退した。

貞宗の四男小笠原七朗政経は、住吉庄内の二ッ木郷の地頭職を分与され二ッ木郷に居館を構え、応永6年8月卒す。

その裔小七朗貞明は二ッ木に生まれ、二木を屋号とした。




「梓川村誌」では、「二木氏は元来西牧氏の氏人であったが、住吉庄が小笠原氏の支配に入って以来その被官となり代官的

地位につくようになったものと思われる。」とある。

これについては、天文21年の中塔城籠城時の「溝口家記」の記載の

『(前略)、かの小屋半年ばかり御抱え候、これによって二木の名字を下される由申し候、(後略)。』によるものかと思われる。

という事で、二木氏の出自については小笠原一族説と西牧一族説があることが分かる。





~ 二木氏の系譜 ~

『信濃史源考』では色々な資料から抜粋し二木一族の流れを書いている。



小笠原政経

・小笠原貞宗の四男『二ッ木の郷を分与され、地頭として二ッ木郷に居館を構える』

・応永6年8月卒。   戒名『実相院如玄真禄大居士』



二木小七朗貞明・・・・二木を称した。

・永享10年(1438)・・・・永享の乱の時、小笠原氏に随って鎌倉攻めに先鋒として出陣し兵3000を率いて鎌倉方の将上杉掃部佐と

戦った。

・永享12年(1440)・・・結城合戦で小笠原政康は陣中奉公を命じられ、手兵の陣番を定めた陣番帳の18番に二木氏がある。

・寛正6年10月卒。   戒名『独笑院観光長園法師』


二木七朗重明・・・・文明13年(1481)6月卒。  戒名『義昌院凌台長雲大禅定門』



二木六郎右衛門重基

『二木寿斎記』に重明と重基の時のこととして、

『此の父子の代に堀野藤次と云へる金堀の人、奥州より金荷を携えて上洛の途、信州路に掛かりしに乱世となり、美濃、近江両国

の路次梗塞せしかば、西牧の内なる田尻に住居し、妻子を有するに至れり。

其の一女を二木六郎右衛門重基妻とせり。其の後堀野藤次病死せしを以て、遺せし金荷財宝悉く二木家の取得に帰せり。

之より金銀に富み、有福の家となれり。』とある。



二木六郎右衛門重信

・大永6年4月7日卒。  戒名『大慈院永沢全久大禅定門』



二木豊後守重高

・重信の長男で永禄元年11月卒。  戒名『節香院松山全貞大禅定門』

6-1 二木豊後守重吉(万太郎・弥右衛門)

・豊後守重高の長男

・慶長18年5月卒   戒名『雄心院高山寿最大禅門』

6-1-1 二木八右衛門重次

・二木豊後守重吉の子

・小笠原氏の明石・小倉移封に従い移住


6-2 二木六右衛門盛正(牛千代・源三郎)

・豊後守重高の次男


⑦二木土佐守政久

・右衛門重信の次男

futatugi5 (2)

futatugi5 (1)
川の墓地にある明治20年に子孫の方が再建した二木土佐の墓


7-1 二木万五郎(縫殿助)

・土佐守政久の長男

7-1-1  岩波平左衛門重直(貞重)

・万五郎の子

・岩波家を継ぐ

・慶長25年大阪の陣にて戦死


7-2 草間肥前守綱俊(源五郎)

・二木土佐守政久の次男

・武田氏が小笠原氏の府中を攻撃した際に草間肥前が討死し、後継ぎが無かったので草間氏の養子となる。

・武田氏時代の軍役は12騎


7-3 二木藤左衛門(孫四朗)

・二木土佐守政久の三男(子、九左衛門へと続く)

7-4   二木善左衛門(藤三郎)

・土佐守の四男

7-4-1 二木彦兵衛政実

・二木左衛門の子

・天正10年槍傷を負う

・八幡宮棟札に二木彦兵衛朝家と見られる。


7-4-1-1 二木勘右衛門政信(政成)

・兵衛政実の子

・小笠原秀政の家老を務める

・慶長20年大坂の陣で戦死



⑧  二木市郎右衛門宗末

・二木右衛門重信の三男

8-1 二木市右衛門宗久

・右衛門宗末の長男

・八幡宮棟札に二木市右衛門と見られる。


※その他の名前も見られるが細かくなるので、事績が分かるもののみなるべく記載しました。

『二木系図』


※この中で戦国期によく出てくるのが、二木豊後・土佐・草間肥前・岩波平左衛門です。


~ 二木氏の歴史の中の動向 ~


・永享10年永享の乱(1438)

二木小七朗貞明、西牧氏・熊倉氏と共に守護小笠原氏に従って鎌倉攻めに先鋒として兵3千を率いて鎌倉方の将上杉掃部佐と戦う。



・永享11年(1439)

小笠原政康及び二木貞明大夫持長大膳、自ら鎌倉攻めに至り此場先鋒を為す。

・永享12年(1440)結城合戦

結城合戦の時、守護小笠原政康は陣中奉公を命じられ、その手兵の陣番を定めた陣番帳に18番二木殿の記載が見られる

・天文17年(1548)塩尻峠の戦い

futatugi7 (2)

futatugi7 (4)
塩尻峠の主戦場であったとされる勝弦峠と古戦場説明版

・西牧の衆・二木一門の者は山辺氏・三村氏が背いたので本道を引くことができないので、桜沢から奈良井へ出て、奈良井孫左衛

門の所で飯米の合力を受けて御嶽越え(鉢盛山)をしてようやく西牧へ帰ったとしている。(二木家記)

・『溝口家記』では西牧四朗左衛門と洗馬の三村駿河守が背いたと書かれており、二木家記との記述の差があり、町村誌の中に

は西牧氏と一緒に二木氏も小笠原氏に背いており、自分たちの悪い歴史を消したいがために二木家記には嘘の記述が書かれた

とするものも見られるが真相は不明。


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城尻峠の戦いに敗れた際に討死した小笠原氏方の諸氏を葬ったとされる首塚と胴塚

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塩尻峠の戦いに敗れた小笠原方が府中に撤退するのを追い討ちした際に打ち取った小笠原方の諸氏の物とされる寿の首塚

・天文19年(1550)野々宮合戦

村上義清が砥石城の戦いで武田晴信に勝つと、この機に乗じて小笠原長時は府中回復を目指し村上義清の支援を受けて平瀬

まで兵を進めた。

義清は塔原に陣をとり、長時は犀川を越えて氷室に陣をとった。

この時に二木豊後・土佐・六郎左衛門と子供4人・親類が出陣している。


futatugi2 (1)

futatugi2 (3)
三郷の野々宮神社境内にある野々宮合戦古戦場の標柱


・天文19年~21年  中塔城籠城について『二木家記』では。。。

・10月・・・野々宮合戦で勝利を得た長時は、『天地に離れたる長時かなと仰せられ、兎角腹を切らん』と仰せられたので、二木豊後

が御自害を御とめになり、『このころ妻子を隠し置く所で、中洞の小屋と言って、一段と堅固の地を城郭に(後略)』といって長時を

諌め中塔城への籠城を進めている。

・11月・・・・二木豊後・土佐の被官の内3人が逆心を企てたので、これから武田晴信の朱印を取り上げてその一族16人を成敗。

・12月・・・・夜に小笠原長時と一族・側近・二木六右衛門・草間肥前は川中島へ退陣し、二木豊後・土佐・一門は中塔城へ残り、

長時が無事中野草間へ到着した報を受けると二木一族も川中島へ行き、長時と一緒に越後に赴いている。(2年間滞在)

・長時は越後を去り上方へ向かう際、二木豊後重高に『法を講じて晴信に属し、本領を維持して、予が他年本意を達するの日の

草の種となり呉れよ。』といい、重高はこれに服すとある。


~  中塔城籠城について『溝口家記』では。。。

この軍の勝利(野々宮合戦)を以て中塔と申す山小屋を取立て、物主に中務少輔(小笠原貞保)を指し置かされ候、この時二木の

祖豊後・土佐の兄弟御忠信、かの小屋半年ばかり御抱え候、これによって二木の名字を下さるの由申し候、然して(後略)。』

とある。

また、溝口家記では貞保を中塔城に入れ、長時自身は籠城せずに直ちに小県の村上へ退いたとしている。



~ 天文23年(1554) 二木氏武田晴信に降る ~

小笠原長時を上方へ送った後、二木豊後重高は嫡子の弥右衛門(重吉)と共に戸隠山に登り祈願をし神意の決定に従い、大日向

上総の館を訪れ武田氏に臣従することの仲介を依頼している。

豊後は大日向氏に甲州へ同道してもらい重臣の馬場美濃と相談し武田晴信に詫言を言っている。

晴信は『これまでの二木一門は憎き仕合といたが、以後忠節を尽くせば咎にもあらず』と言い許され被官となった。

その後、山県三郎兵衛に預けられ二木の本領を安堵され帰郷している。


~ 天正10年(1582) 織田氏の進出と木曽氏の裏切り ~

木曽氏の裏切りに怒った武田勝頼は木曽氏討伐の軍を起こし木曽を攻めさせたが、鳥居峠で木曽氏と織田氏に敗れてしまった。

その後、木曽氏は深志城を攻め城代馬場美濃守を降している。

その際、木曽氏方にいた古幡伊賀守は深志城内にいた二木氏・横田氏等を退散させ二木氏を中塔城へ移らせている。


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鳥居峠の説明版と峠への道を見る


~ 天正10年 小笠原貞慶現れる ~

武田氏滅亡に際して府中回復を狙った小笠原貞慶が梓川の金松寺に現れ譜代の臣を集めた。

そこには二木豊後・子の八右衛門・二木六郎右衛門・その子市左衛門・同源蔵・二木藤左衛門・その子九左衛門・二木善左衛門・

その子彦兵衛・二木縫殿助・その子岩波平左衛門・草間肥前・二木六右衛門の名がみえる。

貞慶は府中を制圧した織田信長に拝謁を望んだが拒否され失意のうちに上方へ去って行った。

s-003.jpg
小笠原貞慶が旧臣を集めるために現れた金松寺


しかし、残された家臣はたまったものではなく、貞慶の為に働いた二木氏などの旧臣は織田氏に府中を任されていた木曽義昌と

関係が悪くなり中塔城へ籠っている。

木曽氏は家臣になっていた西牧氏や降幡氏に二木氏討伐を命じ、小室原などで戦っている。

『岩岡家記』には、9日間取り合いをしたと書かれており、『二木家記』では20日間あまり中塔城へ追い上げられたとしている。

その後、『二木家記』によると、木曽義昌の家老山村氏を頼って義昌に詫び、娘を木曽に人質に出して被官になったとしている。

~ 天正10年  二木一族、武田氏を見捨てる ~

天正10年2月16日に、古幡伊賀と西牧又兵衛が木曽へ内通し、甲州方の深志と縁を切り、近辺の郷中の者を駆り立てて大野田

夏道の砦に立て籠もった。

同じ日に、岩岡佐渡・織部も甲州方の深志と縁を断ち近郷の者を引き連れて中洞山(中塔城)へ立て籠もっている。

同17日に深志から乗り出してきて中塔城の者を14~15人打ち取っている。

19日には岩波平左衛門(二木縫殿助の嫡男)が甲州方と縁を切り中塔城へ移っている。

その後、夏道の砦にいた西牧氏・古幡氏と中塔城に籠っていた岩波平左衛門・岩岡織部が談合し、深志方と戦っている



~ 天正10年 小笠原雪斎、府中復帰時の二木氏 ~

織田信長が本能寺に滅ぶと、後ろ盾を失った木曽氏は上杉氏が擁立した小笠原貞種(雪斎)と共に上杉軍が近づくと上杉氏の

武威を恐れ府中を明け渡し木曽へ退去した。

ついに小笠原氏が府中に往還したことを知ると旧臣が集まりその中に二木豊後がみえ、また、本領を安堵されている。

木曽義昌は深志から木曽へ撤退する際に、安筑両郡の人たちの人質を連れ去っていた。

人質達は西牧氏や古幡氏が籠る夏道の砦へ入れられたので、深志方の二木六右衛門・彦兵衛・岩波平左衛門などが乗り込み、

砦を落とし人質を取り戻すと共に雑炊橋付近で切り合いが行われている。


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大野田夏道の砦の内部を見る。(臨時の砦であったようで郭の削平は甘い)

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夏道の砦遠望

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木曽氏と岩波平左衛門達が戦った雑炊橋

~ 天正10年  小笠原貞慶 府中復帰時の二木氏 ~

府中に入った小笠原雪斎は、上杉氏の家臣である梶田・屋代氏の傀儡となってしまっていたために、小笠原旧臣は期待を裏切ら

れ落胆した。

二木豊後は六右衛門と謀り、惣領である小笠原貞慶の所在を探り府中へ迎えることとした。

その頃、貞慶は徳川家康を頼って三河に潜伏していたため、有賀又左衛門・平沢重右衛門を密使として三河に派遣した。

貞慶は三河から伊那郡に入り、下条氏・箕輪氏等の兵を率いて塩尻に到着し、7月深志城を攻めて雪斎を追い出し、深志を

松本と名づけている。

二木一門・岩岡氏らは直ちに人質として妻子を深志へ移して奉公を誓っている。

~ 天正11年  西牧氏滅亡、二木氏西牧氏の領地の代官となる ~

天正11年の小笠原貞慶が二木豊後に宛てた書状には、二木氏が西牧領分の代官に任命されており、西牧氏の本領であった

西牧郷が小笠原氏の支配下に入っていることが分かる。

この頃には西牧氏は木曽氏方となり梓川渓谷の奥地にわずかに命脈を保っているにすぎなかったが、貞慶の書状には、木曽氏

との境目が落着したならば、稲核・奈川・大野川の代官を勤めること西牧領の梓川河西の白木・材木・薪は二木の市で商売すべき

であるとの命を下しており。

西牧氏が僅かに命脈を保っていた梓川渓谷も小笠原氏の支配下に入ることが目前となっていたことがうかがえる。

その後、西牧氏は梓川渓谷をも支えきれずに木曽へ逃亡し、土豪としての西牧氏は滅亡し木曽氏の配下となって命脈を保っている。


~ 天正10年  会田氏討伐 ~

『岩岡家記』によると、小笠原貞慶が府中に復帰すると旧四賀村(現松本市)を治めていた会田氏は、貞慶に反発し上杉方に内通

し上杉の援軍を得て新規に取り立てた矢久の砦に立て籠もった。

小笠原勢は明科と刈谷原の両口から攻めているが、雪が降っていたようで苦戦を強いられている。

二木氏は明科口を担っていたようで、貞慶から用心の指示や鉄砲の弾薬などが送られている。

その後、矢久の砦は落城し会田氏は滅亡している。


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会田氏の本拠であった殿村地籍と詰め城の虚空蔵山城を見る。

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会田氏が抵抗を試みた矢久砦


~ 天正11年(1583) 二木氏と日岐氏討伐 ~

現生坂村を治めていた仁科氏一族の日岐氏は、府中まで上杉氏が進出した関係で上杉氏に属し、貞慶が府中に復帰以降も

貞慶に帰属する意思を示さなかった為、貞慶による討伐を受ける結果となった。

その中で日岐在番中の犬甘氏に貞慶が送った書状の中に二木彦兵衛を遣わす。というような内容のものがが見られる。

この文書は赤沢氏・塔原氏・古厩氏の謀反が発覚し誅殺したことを報告したもの二木氏は使者の役割を果たしている。



~ 天正12年(1584) 二木六右衛門、貞慶から土地を宛がわれる ~


『今度忠信、無比類に付而、弐百三十貫文之所出置候、似此旨、軍役等弥不油断者也、仍如件、

天正十二年二月十九日  二木六右衛門とのへ                   貞慶黒印』

この文書は、天正12年2月19日小笠原貞慶が二木豊後の二男六右衛門に230貫文の土地を宛行ない、軍役等いよいよ油断の

ないよう励ましているものである。


~ 天正12年 二木氏要害千見城へ在番する~

天正12年小笠原貞慶が平瀬氏や草間氏などに出した文書があり、貞慶の配下として仁科衆が鬼無里を攻め取り、これを在番中

の犬甘・草間氏等に報じて備えを厳重にさせているもので、その中で交通の要衝である千見城を陥れていることが見られる。

その後の事を書いた『岩岡家記』には、千見城在番衆が書かれており二木八右衛門などの安曇郡の武将が動員されて

いることが見られる。


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千見城登城口

futatugi938 (1)
二木氏達が在番していた千見城本郭


~ 天正12年 二木氏貞慶の元で働く~

天正12年4月に小笠原貞慶から犬甘半左衛門に宛てた軍令状に二木氏が出てくる。

内容として、上杉景勝が海津城へ出陣してきたので、貞慶が景勝の属城である麻績城を攻めようとして更級郡篠木尾へ、

犬甘久知を筑摩郡睡峠へ出動させたもので、書中に其元城中之衆とあり睡峠との関係から日岐大城の事を指すものと考えられ

犬甘氏とその配下についていた二木氏は日岐大城に詰めていたことが分かる。

犬甘氏の指揮下の物として二木清三と豊後・六右衛門も麻績城攻めに参加したが、小笠原勢は敗北し二木清三重次は鉄砲

二玉を受けてしまい負傷している。

※この中に出てくる二木清三は二木系図には出てこない為、どの人にあたるのかは分からないが、六右衛門の子の源蔵ではない

かと『北安曇郡誌』では推測している。


futatugi846 (2)
京ケ倉から見た日岐大城

futatugi846 (1)
犬甘氏と二木氏が在番した日岐大城の本郭

futatugi64.jpg
二木氏達が出動した睡峠

上記の文書に続くものとしてさらに貞慶から犬甘氏へ出された文書がある。

内容としては、

上杉景勝が海津城から兵を引いたので、更級郡境の猿が峠・八幡峠へ兵を出して敵情を監視させ、見合を定めて峠に放火させて

いる。更に城普請に念を入れ、丈夫にできていて結構であること、次期を見計らって真田・佐久衆とも相談して川中島の上杉領へ

も攻撃をかけること、仁科衆は今に至るまで篠木尾に陣取っていること、木崎の森の要害の普請以下の横目として二木九左衛門・

二木六右衛門を派遣したこと、などが書かれている。


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二木氏が派遣された森城の堀跡

futatugi654 (1)
森城の本郭

発行時期が不明な文書で小笠原貞慶が千見城の普請を命じているものがある。

この文書で、仁科衆に千見城の普請を命じ、奉行として二木六右衛門と山田善兵衛両人を派遣してその指揮に従わせている

ものである。

小笠原氏が千見城を占拠したのが天正12年であるので、この文書が発行されたのは占拠した時期とそう遠くない時期に出された

ものと推測でき、二木氏が奉行などとして貞慶に重用されていたことがうかがえる。



~ 二木氏のその後 ~

戦国期を生き抜いた二木氏のその後として見られるものとして、

二木久光家所蔵の系図によると、二木土佐には四人の子供があり、三男藤左衛門が居残って堀之内で農業に従事し、四男

善左衛門の子彦兵衛が小笠原氏に臣従して北九州の小倉へ移住している。

彦兵衛は『御当家末書』によると、元和年間(1615~1624)小笠原忠真公御家老と書かれており家老にまでなっている。



長くなってしまいましたが、二木氏の流れを紹介してきましたが、いかがだったでしょうか。

素人が調べたことなので間違いや誤字があるかもしれませんが笑って許してください。。。"(-""-)"

次回からは二木氏の居館を紹介していきたいと思いますのでお付き合いください。



~ 参考文献 ~

梓川村誌                 (梓川村誌編纂委員会     平成6年)

三郷村誌                 (三郷村誌刊行会        平成18年)

南安曇郡誌                (南安曇郡誌改訂編纂会   昭和43年)

生坂村誌                 (生坂村誌刊行会         平成9年)

新編信濃史叢書             (信濃郷土文化普及会       1929年)
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  1. 2015/07/13(月) 15:49:11|
  2. 信濃の武将
  3. | トラックバック:0
  4. | コメント:6
<<安曇野市  二木土佐守屋敷 | ホーム | 安曇野市  中塔城③尖屋敷>>

コメント

よくぞ調べられました

お疲れ様です。
平山氏の著書「天正壬午の乱」あたりから貞慶さんも最近になってようやく日の目をみるようになってきましたが、彼の家臣団ともなるとぐっとマイナーで3Aレベルかと・・・(笑)
ここまで調べた方も皆無でしょう。父ちゃんを裏切った嘗ての部下への復讐の鬼と化した貞慶さん。長時に説得され武田に降った二木さんですが、彼の忠誠心と支えなくして小笠原家の存続は無かったと思います。
謎が多い二木氏の素性について記載いただきありがとうございます。
今後も超マイナー家臣団のご紹介を引き続きお願いします(笑)

あっ、そうそう「えいき」さんが超藪城だった栄村の「城坂城」のレポートをブログに掲載しています。秀逸なレポートなので是非一読いただき応援メッセージをお願いします!!
  1. 2015/07/30(木) 07:31:56 |
  2. URL |
  3. らんまる #-
  4. [ 編集 ]

謎だらけ

らんまるさん有難うございます。
二木氏は多くの文書に出てくるのに、
どの一族の出なのかがよくわからない
んですよね。
まあ、言えるのは世渡り上手だったって
ことでしょうか。
  1. 2015/08/01(土) 07:55:03 |
  2. URL |
  3. ていぴす #-
  4. [ 編集 ]

知られざる戦国の様相・・・

↓ 二木氏といえば、これ、読んでみてください、面白いですよ!
(いや、もうご存じかもしれませんが・・・)

百瀬光信 『小笠原長時横死に関してー松本と会津の史料比較ー』 

[松本市史研究(松本文書館紀要) 第19号 平成21年3月]

(松本文書館で見られるかと思います) 

これを読んだときは呆然としました。
無名の小領主たちも、ただ時代の流れに翻弄されていたわけではなく、こんなにダイナミックでしたたかな生き残り戦略を展開していたのかと・・・

戦国は謎に満ちていますが、面白いです。

二木一族、好きです。スターにはなれないでしょうけど(笑)
  1. 2015/08/01(土) 23:27:44 |
  2. URL |
  3. かから #kQMHmHDQ
  4. [ 編集 ]

Re: 知られざる戦国の様相・・・

かから様返事が遅れてしまい申し訳ありません。
御久し振りでございます。
かから様のブログがお休みされているので寂しく思っていました。
かから様から教えていただいた資料是非見てみたいと思います。
信濃の小領主たちは外部の戦国大名たちに翻弄されたように考えがちですが、
資料を調べてみるとうまく立ち回って生き残った者、頑固に自分の意思を通して
滅亡したものなどすべて自分の考えに基づいて動いていたことが分かります。
二木氏も時代の流れに乗ってうまく立ち回って生き残ってきた一族でしたが、
かから様がおっしゃる通りスターにはほど遠いいですね。
  1. 2015/08/05(水) 20:44:43 |
  2. URL |
  3. ていぴす #-
  4. [ 編集 ]

承認待ちコメント

このコメントは管理者の承認待ちです
  1. 2016/12/09(金) 14:44:58 |
  2. |
  3. #
  4. [ 編集 ]

Re: 拝読させていただきました

二木様返事が遅くなり申し訳ありません。
全く更新しておらず反省しております。
このようなブログでも見ていただいている方が
いることを肝に銘じてもう一度、再開してみようかと
思っています。
※城跡は行ってるんですが。。。。。
ありがとうございました。
  1. 2017/01/04(水) 17:14:13 |
  2. URL |
  3. ていぴす #-
  4. [ 編集 ]

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