長野県の歴史を探し求めて

長野県内にある城跡・石造物などを探し求めそれらを紹介していきます。

スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。
  1. --/--/--(--) --:--:--|
  2. スポンサー広告

安曇野市   等々力城

仁科氏の重臣等々力氏の城

所在地・・・・・安曇野市穂高等々力

訪城時間・・・・0分

危険度・・・・・★☆☆☆☆

訪城時間・・・・2008年6月15日・2009年12月19日・2009年12月26日


※城域内は畑地となっているので時期に注意が必要。

todoriki2 (2)
安曇野市穂高域にある城館配置図                             国土地理院2万5千分の1地図

等々力城は、安曇野市穂高の東部、穂高川の右岸の水田地帯に構築されている。

一帯は平坦地で南に欠の川が流れ、北側にはワサビ田があり、これらに挟まれた微高地に立地している。

そして、領地防衛として北方の北等々力には北城(貝梅城)・東方穂高川端にあら城(主水城)を配備している。


todoriki2 (1)
等々力城立地                                            国土地理院2万5千分御1地図使用

等々力氏の初見は、応永7年(1400)の大塔合戦を叙述した『大塔物語』で、反守護軍の大文字一揆の仁科勢の中に、戸度呂木と

見える。

等々力氏の出自は明白ではないがこの頃に仁科氏に被官化していたことが分かる。

(※穂高町誌では等々力氏が海野氏からの出の可能性を書いている。)


todoriki2 (16)
等々力城遺構配置図                               信濃の山城の宮坂図を参考に作図

todoriki2 (16) - コピー
残存遺構を記入してみると意外によく残っていることが分かる。

天文20年頃には等々力氏は武田氏に配下となっており、仁科氏の親類被官として永禄10年の生島足島神社の神前起請文に

等々力豊前守貞厚の名が見られる。

武田氏の元で等々力氏が活躍していたことが分かる資料に、武田氏発給の文書がありこれに等々力氏が見られる。

天正5年9月5日の文書では、

『今度越州境遠近敵城まで、隠便として案内を遂げ、これに加えてかの城主の行、格法を密に見分くる条、微細注進を数え、寔

比類なき働き感慨の至り、尤も掌握の所これ如何かな、弥向後走り舞い、忠義を抽んすべき者なり』

これは、天正5年(1577)に仁科盛信が等々力次右衛門と細野甚四朗に宛てた感状で、この度両人が越後境の敵城へ隠便(密)

として案内をし、敵城主の行格法(きそく)を密かに探って微細に報告したことは、比類のないことで、その働きは感慨の至りで

あり、いよいよ向後走り廻って忠義を抽んでてほしい、ということが書かれている。

穂高町誌では、この敵城というのは越後の根知城あたりのことではないかとしている。


todoriki1 (2)
等々力城の大手口。(ここからは訪城時期の違う写真が混ざっていますのであしからず)

todoriki1 (3)
大手馬出に建つ城址碑。

次は天正6年の文書で等々力氏が見られる。

『越国境迄小谷筋荷物弐疋前相違なく通すべき者なり、仍って件の如し』

この文書は、天正6年(1578)2月12日仁科盛信が等々力次右衛門に越後境まで小谷筋への荷物馬二疋分を通行税を取らずに

自由に通すことを許可したものである。


s-PC192539.jpg
等々力城の大手を守る櫓台。

todoroki382 (12)
櫓台上部の平坦地、ここにはどのような櫓が建っていたのだろうか。

todoroki382 (6)
櫓台と共に大手を守る土塁

等々力城の大手は櫓台と土塁によって厳重に防御されていて、城の周囲も欠の川が巡っており往時も橋を渡って大手を通って

城内に入っていたものと思われ、かなり厳重な構えとなっている。


天正8年(推定)文書には、

『来礼披見、仍って不動山衆番替近日仰せつけられ候の間、弥御番普請聊油断あるべからずの旨、申し越さるべき候、随って

馬町毎年下知なされ候といえども、町人侘言故、一着なく候、然らば則ち、領中の馬幷に大町、真々部市の儀、この砌穂高へ引か

れ然るべく候、猶替儀重て申し越さるべく候、 恐々謹言』

この文書は、天正8年頃に仁科盛信が等々力次右衛門に宛てた書状で、次右衛門からの書状を見て返信したものである。

越後不動山衆の番替を近日中に仰せつけるので、いよいよ御番普請を油断しないこと、馬市を毎年開いているが、町人が侘言

して開催場所が決着しないので、仁科領の馬市の大町・真々部市を今回は穂高へ移して開きたいと思っている。

猶番替について重ねて申し越すはずである。という内容となっている。

ここでは、等々力氏達が越後不動山城まで城番として出張していることが分かり、上杉景勝と武田勝頼との和睦により武田氏が

越後不動山城まで進出していたものと思われる。


s-todoriki1 (7)

s-todoriki1 (10)
郭内部から見た大手虎口と郭北側に残存する土塁上から見た大手虎口

次も天正8年の文書にも等々力氏が出てくる。

『一鳥羽・栗毛の馬、十八に来着候事、一夫馬如何様にも相調え、同日指越すべき事、一乗馬衆・同手明の者、毎度結付候間、

定武具等寄(騎)羅吟これあるべきか、今度嗜なき人においては、一途過怠あるべく候事、一新御軍法として、鉄砲持一切に御普

請御赦免たるべきの由仰せ出され候間、如何様にも過分に相調え候様に肝煎尤に候、一俄の出陣候間、不足の儀は和泉守・

将監・かたへ相憑のまるべき候事、一細萱河内守、同心、被官召し候連れ、十九に当府へ参着尤に候、一真々部同心・被官同前

の事、彼衆帰城候間、長生寺根知へ罷越さるべき事、一軍兵衛。小兵へ、是も十九に参着候事、一相残候道具、十人衆申しつけ

同日差越すべき事、一各立物の儀、かんばんを申し請け候間、両地在番衆は、今度の留守に支度尤に候、ひたきんたるへく候、

恐々謹言』

この文書は、天正8年頃仁科盛信から等々力次右衛門に宛てた書状である。

鳥羽、栗毛の馬を18日に来着させること、荷物輸送の馬をいか様にも多く調えて指越すこと、乗馬衆や主人の護衛に当る歩兵の

者に毎度言いつけていることであるので、定めて武具等の整備をよくしていると思うが、今度嗜のない人に対しては処罰をすること

新軍法として鉄砲持のものには一切御普請請役を免除するので、いか様にも過分に調えること、にわかの出陣で人数等に不足の

あった場合は、倉科和泉守・丸山将監方へ依頼すること、細萱河内守(穂高町)は寄子同心と被官を召しつれて19日に大町に参

着すること、かの衆が帰還したならば、替りに長生寺(渋田見氏・・・池田町)が、根知へまかり越すこと、松川軍兵衛(松川町)・

岡村小兵衛も19日に大町に参着すること、残った道具は小谷十人衆申しつけて、同日に差越すこと、おのおの甲の飾りの立物は

薄い銅板を付けることにしたので、不動山根知の両在地番衆は今度の留守に支度をよくすること、専一に忠勤を励むこと、という

ないようとなって等々力氏が直接、仁科盛信から指示を受け在地の土豪たちに支持を出す立場にいたことが分かる。


s-todoriki1 (5)
北側に残る土塁を見る。(高さは約3m)

s-todoriki1 (26)
等々力城の残存土塁と郭内部を見る。

武田氏滅亡後の等々力氏の動静を示す資料は見られないが、天正18年(1590)の豊臣秀吉による小田原征伐で小笠原秀政の

従兵に等々力善左衛門の名が見える。

松本城主石川氏の代の文禄5年(1596)宮本神明宮棟札に宮本神明宮造営の助成衆の中に郷士として等々力三衛門尉が見える。


s-todoriki1 (17)
西側の城域を区切る堀を見る。

todoroki382 (9)
堀切は欠の川へ落とされている事が分かる部分

『未だ申し承わず候と雖も、啓せしめ候、仍って大竜寺御指南をもって監物参陣、殿様の御備に踞り候由承り及び候、彼の者不届

物に御座候の条、只今に至るも拙夫許容致さず候、然りと雖も、当御陣中然るべき様に御取りなし頼み入り候、随って一種壱荷

進上致し候、御取り合せ仰ぐ所に候、委細大和五兵衛申し上ぐべく候、恐々謹言』

この文書によれば、等々力右衛門は大阪の陣に出陣しており、その陣に三枝元久が、子息監物が大竜寺の指南によって参陣し

ており、監物は不届者で勘当の身であるが、よろしく御世話を願いたいとの書状を送ったものである。

等々力氏は石川氏の家臣ではなく、郷士として名字帯刀を認められていたので、軍役を命じられていたので小笠原忠脩に従って

大阪の陣に参陣していることが分かる。

その後、等々力氏は元和・寛永年代に百姓になっており、一族は柏原・重栁等に排出しており、江戸時代に穂高組の大庄屋と

なっている。


s-todoriki1 (25)
欠の川沿いには帯郭状の一段低い平地がある。

s-todoriki1 (32)


穂高に根付いた豪族等々力氏の城はいかがでしょうか。

大きな城跡ではないですが、遺構がよく残る地域の宝ですから大事ににしたいものですね。

この間、城跡の近くを通ったら標柱が無くなってました。。。。。。残念。




~ 参考文献 ~

穂高町誌                     穂高町誌編纂委員会

信濃の山城と館                 宮坂 武男



大きい地図・ルート検索  ( powered by ゼンリン地図 いつもNAVI )
スポンサーサイト
  1. 2015/10/05(月) 18:01:51|
  2. 安曇野市
  3. | トラックバック:0
  4. | コメント:2
<<松本市   桐原城附番所群① | ホーム | 安曇野市   草間肥前屋敷>>

コメント

結構残ってますネ

まさに土豪の「館」ですね。
市街地にあるのに結構遺構が残されているのには驚きました。
意外と標柱は大事です。ああ、ここは史跡なんだ、と思い調べるキッカケにもなりますし、遺跡の保護にも役立つものです。安曇野市に限らず名所や旧跡の標柱の現状を把握する行政側の活動も大事だと思うのですが、なんせお役所ですからね・・・(汗)
  1. 2015/10/17(土) 07:47:33 |
  2. URL |
  3. らんまる #-
  4. [ 編集 ]

Re: 結構残ってますネ

らんまるさんこの間はお世話になりました。
安曇野市内の平地の城館跡にしては保存状態が良好です。
近世の等々力家住宅など残り興味深い一族で新潟などにも
派遣され在地土豪にしては権力者には頼りにされていてかなりの力を
持っていたようですね。
  1. 2015/10/19(月) 19:05:58 |
  2. URL |
  3. ていぴす #-
  4. [ 編集 ]

コメントの投稿


管理者にだけ表示を許可する

トラックバック

トラックバック URL
http://osirozuki.blog.fc2.com/tb.php/251-aad73014
この記事にトラックバックする(FC2ブログユーザー)

プロフィール

ていぴす

Author:ていぴす
見に来ていただきありがとうございます。
現在の長野県内城跡訪城数は   814城です。

少しずつ増やしていきますのでお楽しみに!
写真にはこだわっていきます!

最新記事

最新コメント

最新トラックバック

月別アーカイブ

カテゴリ

未分類 (0)
初めまして (1)
信濃の武将 (11)
松本市 (47)
安曇野市 (33)
塩尻市 (15)
筑北村 (5)
生坂村 (36)
池田町 (18)
箕輪町 (13)
伊那市 (7)
辰野町 (2)
下諏訪町 (9)
諏訪市 (1)
中川村 (3)
駒ケ根市 (6)
ニュース (4)
廃村 (1)
伝説 (2)
本日の訪城 (14)
飯島町 (1)
武将の墓地 (4)
松川村 (3)
千曲市 (1)
南箕輪村 (1)

検索フォーム

RSSリンクの表示

リンク

このブログをリンクに追加する

ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

QRコード

QR

上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。