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こんばんは、ご無沙汰してます。
昨年の郷土博物館の講演で、遠藤公洋氏が
「天正期に上杉風の改修が加えられたのではないか」
と述べていたのは、おそらくこの部分だと思います。
また、鉄砲戦を想定しての低い土塁が見られる、とのことでしたが、どのへんなのでしょうか。
塔原氏が、仇敵仁科一族というだけでなく、上杉勢の最先端部ということであれば、小笠原貞慶に激しく敵視されたのも、なるほど、と思えます。
このあたりも、松枯れの伐採が目立つようですが、押野城のようなことになってほしくないものです。
塔原城、たいへん美しく、興味深いお城です。
- 2016/04/23(土) 22:25:22 |
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- かから #0x7wt1P.
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こんばんはこちらこそご無沙汰しております。
天正期の上杉氏による改修とは、小笠原貞慶が府中を回復する以前の
小笠原洞雪斎が上杉氏の支援を受けて府中に入城した時のことだと思いますが、
追い出した木曽氏に備えて塩尻方面の城を改修するのは理解できますが、
統治していた府中から見ると上杉領側となる塔原城を数ヶ月しか統治できなかった
洞雪斎が改修まで手が出せたのかは少し疑問ではありますね。。。。
低い土塁というのはたぶんですが。。。。よく上杉方の城にある北信濃での鉄砲陣地といわれるもので
大手堀切と斜面途中の横堀・段郭あたりが鉄砲陣地といわれるものに似ていますね。
細い帯郭に土塁を付随させるものをそう想定しているようです。
上杉氏に手を貸しその後、貞慶に降った仁科氏は貞慶による復讐が怖かったんでしょうね。。。。復讐の鬼ですから。
塔原氏の間伐は遺構の無い斜面は作業道などを開け間伐していますが、城内は手作業でやっていただいているよう
ですので作業をやられている方には感謝です。
このままいい状態で後世まで残してほしいものですね。
- 2016/04/25(月) 23:13:11 |
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- ていぴす #-
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五遁様丁寧なごあいさつありがとうございます。
埼玉に帰省しており遅くなってしまい申し訳ありません。
改めてあけましておめでとうございます。
この間ご一緒した時間はとても楽しかったです。
また暖かくなりましたらご一緒させてください。
よろしくお願いします。
- 2017/01/04(水) 17:11:25 |
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- ていぴす #-
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