長野県の歴史を探し求めて

長野県内にある城跡・石造物などを探し求めそれらを紹介していきます。

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松本市  会田氏について・・①

会田氏関連の遺跡・城跡を紹介していきますが、その前に、細かいことはあまり良く分かっていない
ものの資料に書かれていることを抜粋しながら会田氏について紹介していきたいと思います。


会田氏とは、現在の松本市四賀地区を納めていた領主であり四賀地区には数多くの城跡・宗教遺跡が散見され会田氏の権力の大きさがうかがわれる。
なお、会田氏と一言でいっても、海野幸継の子供が起こした海野氏系会田氏と小県の岩下に領地をもっていて海野氏からわかれた岩下氏が海野氏系会田氏がいなくなってから入ってきて会田氏を名乗った会田岩下氏の二系統が存在しました。


ここからは、海野氏系会田氏について紹介します。
(なお、文献を調べてきていますが、素人が書いていますので間違えがあるかもしれませんので、あしからず。)


海野氏系会田氏については、朱雀院御宇の天慶二年、平将門謀反の時に海野幸恒に軍功があり筑摩郡田沢・塔原・光・会田・麻績の郷を賜ったのが海野氏が筑摩郡へ進出するきっかけとなった。(金沢系図)その後、海野氏が会田御厨の地頭職を有するようになる。「嘉暦頭後結番下知状」の嘉暦四年に会田御厨、海野信濃権守入道以下とあり、この海野入道が嘉暦四年に現存の人とすれば、元弘元年に討死した海野信濃権守幸康と思われる。海野幸康の曽祖父、海野信濃守幸継には六人の子供がおり、その六人の子供達に幸恒が賜った郷を分知し地頭職として入れた。子供達はそれぞれの郷の地名をとり家名とした。
会田の郷には幸継の二男が入って会田小次郎を名乗ったが、
「四賀村誌」では二男の名を幸持とし、「信濃史源考」では、幸元として、海野系図に幸持なし。と書いている。
この会田氏を名乗った二男の名については、資料により違いがあるが共通点は海野氏の分系であるとしているところである。この後の会田氏については、詳しい資料が無いが次に会田氏が資料に出てくるのは応永七年の「大塔合戦」であるが・・「四賀村誌」では、大塔物語に「会田・岩下」の記述があり間に点をいれ会田氏と岩下氏が海野氏について出陣して小笠原長秀と戦いその後、幕府の処置により小笠原氏を継いだ政康に会田氏も臣従するようになったが、文明六年の「諏訪御符礼の古書」に岩下氏の名が出てくるのでその頃に会田氏と岩下氏が入れ替わりその理由はわからないとしている。ただ、「会田岩下」として間に点を入れず会田岩下氏と解釈している資料もある。「信濃史源考」では、会田氏と岩下氏の入れ替えを大塔合戦の前の文安年間に鎌倉北条氏の遺児成氏から出た村上氏が国清・政清と持清が本領を争うことになると、小笠原氏と越後長尾氏は国清・政清を支援し、持清を海野氏と武田氏が支援し佐久小県で数次合戦をしたが海野氏方は散々に打ち負かされてしまった。これにより海野総領家は衰退し会田氏も衰退していった。戦いに敗れた村上持清が去ると会田氏は鎌倉成氏に仕え会田の地を去って行った。としている。


                 ~会田氏関連文化財~

ni.jpg

これは、殿村の西側にあるニゴミ堂(人埋堂)といわれるお堂の跡である。
文禄3年「会田郷往古之略図」には、此の堂は軍人の死人や百姓の死体を埋める地。
人埋堂に守りを置くと伝える。と描かれていて戦死した人を埋めていたことがわかる。


ni2.jpg

現在は、このように石仏・卵塔などが無造作に集められていてあまり大切にはされていないようだ。
これでいいのか?日本人。てね。


ni3.jpg

この堂跡には写真のような、五輪塔・宝筐印塔の残欠が見られ、道路建設時の発掘でも古い板碑が発見されかなり古い時期からあったことが確認されている。

P9132272.jpg

善光寺街道沿いにある岩井堂観音である。
信濃二十番札所観音霊場として街道を行き交う参詣者で賑わった観音堂であり、弘法大師伝説を伴っている。


P9132307.jpg

堂の脇には磨崖仏が彫られている。
「会田郷往古之略図」には、祝堂として会田氏施薗地、岩石ノ名所なるにより岩井堂と改めるという。とあり
会田氏との関係を伝えている。


P7279087.jpg

会田氏の館跡とされる殿村に隣接している長安寺である。
この寺は岩屋神社の別当で、文永5年(1265)蘭渓道隆(大覚禅師)の招聘開山とされる。
観音蔵菩薩を本尊とし、より古く遡る寺と推定され、会田氏滅亡とともに衰退したが現在まで細々と命脈を
保ち祈祷の寺として近年まで春に斎串状の田の神を売っていた。


P7279101.jpg

歴史ある寺も現在は、無住となり寺はボロボロである。

P7279091.jpg

現在の会田小学校体育館付近にあった補陀寺の石仏で、今は、長安寺の敷地にある。長安寺は明治の廃仏毀釈で廃寺となった。この寺も会田氏の館跡に隣接していて濃い関係を窺わせる。
天正9年(1581)の「信濃道御祓いくばり日記」にその名が見える古い真言宗の寺院で、室町時代初期の製作とされる阿弥陀如来像が伝わっている。


nu1.jpg

この寺は、岩井堂近くにある無量寺である。この寺の裏にはうつつ城が存在する。

nu2.jpg

無量寺は、弘仁10年(819)に真言宗の寺院として開山したと伝わる。この寺も弘法大師伝説のあることも注目される。無量寺も「信濃道者御祓いくばり日記」にも記載されている

nu3.jpg

裏の墓地には、古い宝筐印塔の残欠がみられる。

回は・・・会田岩下氏をお伝えしたいと思います。


~参考文献~

殿村遺跡発掘調査概報  (松本市教育委員会  平成23年)

四賀村誌  (四賀村役場  昭和53年)

信濃史源考(6) (歴史図書社  昭和51年)
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  1. 2012/05/11(金) 10:00:26|
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会田氏関連の遺跡・城跡を紹介していきますが、その前に、細かいことはあまり良く分かっていないものの資料に書かれていることを抜粋しながら会田氏について紹介していきたいと思い...
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