長野県の歴史を探し求めて

長野県内にある城跡・石造物などを探し求めそれらを紹介していきます。

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生坂村  日岐氏・丸山氏について②

第2回目は・・・・・・日岐氏についてお送りしていきたいと思います。

基本的に資料が少ないのでわからないことが多いですが出来るだけ書いていきたいと思います。

なお・・・素人ですので間違えがあるかもしれません。。。参考程度に見て下さい。


            ~ 日岐氏について ~

日岐氏の発祥は、安陪任清や仁科盛遠の祖父 仁科盛弘が末子を盛生を伴って日岐に隠居し日岐氏を称した。

その後、日岐盛生の流れは中絶したといわれている。

(なお、盛生は盛弘が隠居後に日岐で生まれたとする説もあるようである。)


その後、丸山政友の子 筑前守盛教が日岐氏を称するようになった。

その盛教の子がよく日岐大城の戦いで出てくる日岐丹波守盛武(盛次に比定)と盛直(盛正に比定)の兄弟で、

日岐盛直は、日岐大城と万平の館を守り、日岐盛武は日岐城と殿屋敷という説とその逆の説もあるが、

兄弟が協力して守っていたのは間違いないようである。
             
 *①
日岐盛次(盛武)は、天文22年10月武田氏の侵攻を受け神明の森から万平・下生坂の地に戦いを展開したが、

塩尻峠の戦い以来、武田氏の為に多くの主将を失った日岐城は陥落し、丹波守盛武は八幡(千曲市)に落ちたが

後に武田氏に属した。

永禄10年には仁科十将の一人として生島足島神社に起請文を提出して武田氏に忠誠を誓っている。

*②
天正10年、武田氏滅亡の機に乗じて日岐盛直は日岐盛武や同族の日岐上総守盛広の協力と上杉氏の加勢を得て

旧領奪還に成功し、日岐盛武を上杉方の日岐大城城代として在城させ、盛直は稲荷山城(千曲市)に在番していた。

*③
深志城に回復した小笠原貞慶が周辺の土豪の討伐を始めると天正10年9月日岐にも貞慶の軍勢が押し寄せ日岐

盛武の守る日岐城・大城を陥落させた。

小笠原氏に敗れた盛武は八幡(千曲市)に敗走したが、小笠原貞慶は日岐盛武の妹で穂高内膳の妻南姫を捕らえ、

盛武と穂高内膳の帰参を説得させようとしたがうまくいかなかったので、貞慶は誓紙を出している。

これにより、日岐盛武は小笠原貞慶に帰参し旗本大将となり、押野之内納万疋の地を宛行われ引き続き旧領の

日岐一跡・大穴等都合二百三十貫文を宛行われている。

一方、日岐盛直は天文12年上杉景勝に属している八幡の神官 松田民部之助の嗣となり、松田織部佐を称し

稲荷山城に在番して七百六十石を給されている。


注記

*①・・・・「信州の山城」では、「高白斎記」に武田氏による
日岐攻めの記事はなく、天文19年7月15日の項に「仁科道外(盛康)出仕」とあるので主家の仁科氏が武田氏に
投降した為、日岐氏も降服したのであろう。としている。


*②・・・・「生坂村誌」では、小笠原氏の日岐攻めは盛武が
前面にたって戦っている。これについては、盛直がすでに上杉方として千曲市の稲荷山城に在番していた為に
盛武が戦ったという説がある。しかし、盛直が稲荷山城主となったのは天正12年6月八幡宮の別当職を宛がわれ
松田織部亮盛直と名乗った時からであり、天正10年の日岐攻めの頃に上杉景勝から日岐の地を安堵されそのうえ
安曇郡池田郷・滝沢・萩原・細野・松川の諸郷と筑摩郡の潮の地を新たに知行されていて、10年12月景勝から
「信州一変の上、先判の所」と注をつけて盛直に所領安堵を約束している。さらに11年盛直が潮神明社に神田を
寄進している。これらのことから盛直は八幡に逃れたのではなく、上杉氏の配下として日岐のどこかで戦っていた
のではないか。としている。




*③・・・・「信州の山城」では天正10年3月に武田氏が滅びると
織田氏・上杉氏と支配したが、小笠原貞慶が深志城にはいると武田氏侵攻時に裏切った豪族の攻略を開始した。
これにより日岐大城にいた日岐盛直は6月上杉氏の元へ逃れ、生坂谷は盛武が守っていた。
貞慶は8月8日になると盛武を攻め13日には降している。
盛武はこれを聞き、日岐大城で盛武を説得し上杉方にさせている。とある。


「生坂村誌」では貞慶が日岐氏を攻めた理由を因縁ではなく、上杉氏の配下となっていた日岐氏が邪魔な存在で
あり、日岐の地を手に入れたいという願望が強くその為に日岐攻めが行われたのではないか。としている。


            ~ 日岐氏関連史跡 ~

日岐氏墓所

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日岐城主の居館跡の裏にある丸山盛慶開基の正福寺跡にある日岐氏の墓である。

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日岐氏の墓とは言われているが宝筐印塔と五輪塔の残欠の寄せ集めであり、完全なものは無い。

天神社跡

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日岐最大の神社だった天神社跡でこの神社は日岐氏の信仰があつかった。
説明板にある日岐盛貞が奉納した天神画像などは現在日置神社に保存されている。
(神社跡は日岐公民館前にある)



      ~ 天正10年小笠原氏による日岐攻め ~

日岐城攻めの状況については色々な資料があるが、「生坂村誌」を中心に書いていきます。

日岐城攻めについては小笠原氏側の文献資料だけしか残っていない。

小笠原家編纂の「笠系大成附録」の「御書集」に載る犬飼半左衛門久知らにあてた貞慶の書状五通と、

「岩岡家記」「二木家記」などでありそれらを総合してまとめてみる。

この戦いは、松本犬飼城主の犬飼久知と明科塔ノ原城主海野三河守を先鋒大将として開始された。

これより先、日岐城勢が塔原口へ戦いを挑んできたのでこれを迎えて戦い、穂刈監物が矢傷を負い川船次左衛門

が鑓で突かれ、岩岡織部が抗戦して敵を防ぎ、手負い人や戦死者を引き取って引き上げるという前哨戦があった。

ついで八月八日は本戦となる日岐城攻めが行われることになる。

塔ノ原城から北方の赤岩へは小笠原山城守長継・溝口定康が兵士を五手に分けて軍を進めているが、この隊は

日岐氏の南方の最前線にある中野山城などを攻撃したものと思われる。

九日には小笠原出雲守頼貞や百束氏らも援軍として府中を出発している。

この援軍は穂高に在陣じている古厩氏や渋田見氏ら旧仁科衆らと共に池田方面から中山城・白駒城などの日岐城の

搦め手側から進軍している。

一方、会田方面へは赤沢式部少輔を派遣し、青柳頼長勢が北方から小笠原勢を攻撃してくるのを牽制している。

また、大町方面からは牧之島の上杉勢を牽制する仁科勢らも差し向けている。

八月十日の貞慶の書状には、日岐盛武が降参を申し出てきているが、これをとりあげることなく断固として戦う

決意を表明している。しかし、日岐氏の抵抗が激しく長期化し、開戦から二十日経った八月二十九日の書状には、

日岐城の大手口からの攻撃準備が整ったので、日岐城の者共も退散し落城するだろうといっている。

しかし、日岐城は落城せずに月を越えている。そしてついに九月六日の書状では、貞慶自身が七日に出馬する旨

を伝えている。「岩岡家記」に貞慶の本隊が、西口の平出から東に向けて進んでいると、日岐勢が貞慶の本隊の

後方を襲う為五十騎で登波離に向けて日岐崎を船で乗り越えてきたので、後陣の味方の雑兵が応戦し、日岐勢

二十騎程を討ち取った。登波離橋詰めで日岐勢を追い崩したので、日岐勢は犀川へ走り、船を捨てて川へ逃げ込ん

だので流れ死ぬ者や泳ぎ這い上がる者もでた。

貞慶の命令で有無をいわず川を越して追うように下知されたが、人馬は川の深さに抗せず引き返した。

岩波・岩岡らは何とか中州までたどり着き、古厩・今井は徒歩で渡ったが岩波は矢傷を負い岩岡は馬の口取り人足

の物が鉄砲で撃たれたので、ようやくその場を脱したとして伝えている。

貞慶の出馬が書状通り九月七日だったと見れば日岐城落城は九月八日あたりであったかと思われる。

こうして小笠原貞慶による日岐城攻めは約一カ月かかったことになる。

この戦いを「岩岡家記」では、「未ノ九月、日岐ノ大城御責被成候御積ニテ深志衆赤岩ヘハ山城殿・

溝口殿人数合五手被仰付候、牧之島口ヘハ仁科衆二手、出雲殿・岩波平左衛門、都合五手ノ衆、御旗本衆弐十騎

ニテハ、平井口ヲ御オシ被成候時、跡ノ道トワリオトシヘ、日岐ヨリ足軽五十騎バカリ船ニテ日岐崎ヲ乗越、

味方ノフマルヲ備オシノ跡ニテ弐捨計討申候ニ付テ、御備ノ衆ミナミナ乗返シ、トワリ於トシ橋ノツメニテセリ合

日岐衆ヲ追崩シ申候ヘハ、船ヲハ捨、川ヘニケコミ、流候者モ御産候、オヨキハイアカリ申候」とある。

なお「池田町誌」では、日岐盛武は、落城に際して以前から貞慶に通じていて、戦いのあと貞慶の手をかりて

水内郡芋川城を攻めて手柄として降っている。この以前から通じていたという根拠は、日岐大城攻囲中の八月

十一日付けで貞慶は盛武に対し、兄(盛直)の領分まで日岐一跡は盛武に与えてるという安堵状を出している

ので通じていたのであろうと書かれている。(このあたりの解釈は資料によって違いが見られる)



以上、2回に分けてお送りしてきた丸山氏と日岐氏いかがでしたでしょうか。
資料により見解の違いなどがありまとめきれていない場所や間違いがあるかもしれませんが笑ってお許しください



少しでも日岐氏や丸山氏について興味をもってもらえたらうれしいです。



~参考文献~

生坂村誌       (生坂村誌刊行会   平成9年)

信濃古武士      (丸山 楽雲     平成21年)

池田町誌       (池田町誌編纂委員会 平成4年)

信州の山城      (信濃史学会    1994年)
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  1. 2012/07/25(水) 06:09:33 |
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  1. 2012/07/25(水) 21:42:13 |
  2. |
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Re: タイトルなし

> いや~勉強になります でも私には難しいですね さすがです金さん


???? だれだ~。。。。。名を名乗れ。。。。 (*^_^*)

コメント。。。。。ありがと。  がんばります!
  1. 2012/07/25(水) 21:49:10 |
  2. URL |
  3. ていぴす #-
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  1. 2012/10/25(木) 20:45:31 |
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丸山さんへ


コメントありがとうございます。

家紋ですが、まったく知識がありませんのであっているかは
わかりませんが。。。。

安曇野市押野の丸山氏に伝わる陣屏風には、
「アゲハ蝶の家紋」「七割二引き」もう一つは不明が書かれています。

もう一つは、同じく押野の丸山氏所蔵の烏帽子があります。

「信濃古武士」記載の文には、

丸山将監貞政の弟喜兵衛貞広着用、仁科氏には奥州安陪氏の流れが入っており、
貞任の二男仙千代の幼名を丸山氏は襲名している。
この烏帽子の違鷹ノ羽の家紋は古代安陪氏の紋所で大町市木崎の仁科城跡(森城跡)
の安陪神社と同紋、丸に違鷹ノ羽。とあります。

すみません手持ちの資料では、この程度しかわかりません。
参考になったらいいのですが。。。。ゴメンナサイ!!
  1. 2012/10/27(土) 15:27:39 |
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  3. ていぴす #-
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  1. 2014/07/18(金) 09:40:13 |
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  1. 2016/04/16(土) 09:23:59 |
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