長野県の歴史を探し求めて

長野県内にある城跡・石造物などを探し求めそれらを紹介していきます。

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松本市  平瀬本城

多くの戦士が滅んだ城

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平瀬城郭群の配置図                         国土地理院2万5千分の1地図使用

所在地・・・・・松本市島内                                 訪城時間・・・・・20~30分

危険度・・・・★★☆☆☆(冬季は狩猟のためにハンターが入るので注意が必要!)

訪城目印・・・・・国道19号沿いに城址入り口の看板がある


訪城日・・・・2008年12日8日・2014年3月27日(写真は2回の訪城時の写真を混ぜて使用)

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この図面を参考に紹介していきます。

~ 出丸(出郭) ~

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登城路を登って行くと左手に明らかに人の手によって構築されたと分かるシルエットが見えてくる。

現在の松本市北部と安曇野市周辺にあった住吉庄は、幕命により小笠原氏の所領となり住吉庄に勢力を持っていた西牧

氏や平瀬氏などは小笠原氏の支配下に組み込まれていったようで、永享12年(1440)に下野国で起った結城合戦では

守護小笠原政康は犬甘氏や平瀬氏・西牧氏を率いて出陣している。


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出郭ながら郭の規模は大きく、削平も丁寧にされており三段からなっている。

文明3年(1481)大塔合戦いらい『古敵当敵』(昔も今も敵)の間柄であった仁科氏(此の時の当主は長朝)が穂高で戦い

小笠原氏が仁科氏を破り、仁科氏を配下に加える事に成功し婚姻関係をもって懐柔するとともに仁科一族を古厩・堀金・

鳥羽・吉野・熊倉等への進出を認め、これらの地域に進出した仁科一族の丸山氏らを平瀬氏の寄子として組み込んだ。


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この出郭の構築された意義といえば、真下に存在する犀乗沢沿いを通過する山田道を対岸に写っている平瀬南城と監視

をしもし敵が通過すれば協力して挟撃する役目を担っていたのであろう。


平瀬城が天文20年に武田氏により落城し、城主ら204人が討ち死にしたがこの名に寄子である丸山氏が含まれていた。

『吉野の堀屋敷にいた丸山丹後守家の系譜』によると、丸山肥後守 → 丸山兵庫守 → 丸山丹後守 となっていて、

丸山氏は生坂村丸山の出身で兵庫守の時に平瀬氏の寄子となっている。

丸山兵庫守が吉野に移住した時期は現在豊科中心部にある法蔵寺が平瀬養老坂の寺坂から現在地に移動する永正3年

(1506)以前(明応年間か?)と寺伝では伝えている。


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出郭から登山道を辿ると、山頂にある本郭の虎口に至る。

この登山道は往時の城道を世襲しているようで、虎口にいたる道の周囲には小規模な削平地が見られ、虎口も城内側が

優位になるように坂虎口となっていて、小規模ながら土塁と石積みが見られて防御を厳重にしている。


丸山氏の系譜では、兵庫守の事績として『明応年間中、平瀬城を建て入部、武田と桔梗ヶ原で戦って討死』とあるが、平

瀬氏の寄子が平瀬氏の城を築くはずはなく築城か改築を手伝い、城番として平瀬城に入っていたものと思われる。

また、桔梗ヶ原で討死は天文20年の平瀬城の落城での討死の間違えであると思われる。

兵庫守の子である丹後守には、『平瀬城に居て永正年間中法蔵寺を吉野郷に創建、天文21年桔梗ヶ原の戦いに敗れて

和州(大阪)へ退去、永禄5年卒』と書かれており、これも丹後守が平瀬城の城番をし、天文20年(21年は間違え)に平瀬

城の落城に遭い父親の兵庫守と違い生き抜いて和州(大阪)へ落ち延び永禄5年(1562)に亡くなったものと考えられる。

(後に書くが、丹後守の子政勝【政勝も後に丹後守を名乗ったようである】は府中小笠原氏の元に戻っている。)


~ 郭① ~

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虎口を入った郭①を見る。

郭①は高さ1.5mほどの土塁により東郭と西郭に分けられている。また、土塁には石積みのような物がみられるが往時の

石積みか近世になって郭①は開墾されたようであるのでその時に出た石を積んだのかは判断が出来ない。


丸山氏が平瀬城の落城時に何故城内にいたかといえば、もちろん丸山氏が平瀬氏の寄子であったからであるが、(寄子

とは小笠原氏に従ったが丸山氏の管理を平瀬氏に任せ、平瀬氏の配下として丸山氏には小笠原氏同様に平瀬氏に忠勤

をはげみなさいよ。。。という感じ。)

新説である平城の平瀬城に落城することが分かっているのに本拠防衛を思う平瀬氏が直属の部下と籠るのは分かるが、

寄子で本拠地に戻れば領主となる丸山氏達が本家の仁科氏が武田氏に従っているのにわざわざ平瀬氏に付き合って滅

亡する道を選ぶのであろうか?

(この寄子の中で飯田右馬允というものがいるが、この飯田氏も平瀬城攻めには平瀬城に丸山氏同様に籠城したはずで

あるが、丸山氏が討ち死にしたり逃れて和州に逃れているのに、飯田氏は平瀬城落城後も本拠地の飯田館に居る事を

考えると寄子の中でも平瀬城攻撃前に武田氏に降った者がいる可能性が考えられる。)


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郭①の土塁を隔てた西側の郭は2段に分かれており、所々の縁部に土塁跡と思われるような高まりが見られる

『豊科町誌」には、武田軍の攻撃の主力は大手(前面)の方向から行われたものと思われるが、一部の兵力は背後の

神沢・山田方面から犀川丘陵の峰伝いに来襲し、搦手から攻撃をくわえたように思われる。そして徹底的にダメージを与え

ており204人の打ち取りとなったもののようである。

『二木家記』も『犬甘の城(犬養山)を馬場民部甲斐国よりなあkりある者ども、その上信州衆晴信方にまかり成り、一手に

なって攻め落とし、それより平瀬の城へ取り掛かり攻め落とし、平瀬殿も城にて打ち死に申され候、人数多く討ち死に仕り

候』としている。


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西の郭の上段から下段の郭を見下ろす。

山家氏などはその居住地(松本市入山辺)からして搦手からの攻撃軍に加わったようで次のような感状が残っている。

『今度平瀬城において頸壱つ、平瀬八郎左衛門打ち捕らるの条、戦功の至り、一段と感じ入り候、然らば弥々忠信を抽ん

でらるべく候、恐々謹言      天文廿亥辛年十月廿四日    晴信       山家左馬允殿

とあり、前回紹介した陣畑や口伝も本当のことを伝えていたのではないだろうか


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郭①西郭の下段北側には、尾根先端部に設けられている規模の大きな帯郭もしくは本郭の一部か(郭②)。。。に降りる為の虎口が設けられている。

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尾根の先端部から登ってくる敵を最初に迎撃すべく構築された郭で、ここを馬出としている研究者もいるが、ここからの

出撃路があるようには思えず、もし尾根先端から攻められたら・・・・という恐れに対する防御施設であろうと思われる。


平瀬氏や部下・寄子達は武田軍が攻めてくるので平瀬城に籠り犀川方面から攻めてきたら、南城と共同で戦闘を行い

戦況があやしくなったら尾根を伝って逃げようと考えていたが、武田軍が軍をニ分して尾根伝いの山田方面からも攻めか

けてきてしまった為に逃げ場を失い全滅覚悟で戦う羽目になり204人もの戦死者を出してしまったのであろう。

当時の平瀬城は郭①②と何本かの堀切程度の小城であったと思われ、武田軍との兵力差を考えれば1日での落城は

よく頑張ったほうなのではないだろうか。


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郭①から見た眺望

この眺望を見ればこの城の役割が良く分かるであろう。


山城の位置は、平瀬氏の本拠である平瀬郷からは確かに場所が偏っているが、寄子達のいる現在の豊科周辺までも

管理しなければいけなかったと考えれば、この山城からは平瀬郷・豊科などが一望でき管理には都合がよく平瀬氏の

本拠が平瀬本城である可能性が強いのではないだろうか。


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郭①の東郭は、城内で一番広いもので城主や番兵の居住空間であったものと思われる。

過去に耕作がされたと言われているので、往時同様になっていたかは分からないが、尾根続き側の郭端には土塁が残り

南側郭端には石積みが残されいる。(石積みに関しては石塚のようなものや土塁壁面・郭端などに見られるが、耕作時に

でた石を積んだだけという可能性も捨てきれない。)


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郭①尾根続き側に残存する土塁上にある鎮魂碑を見る。(碑の裏面には平瀬城陣歿者之霊と刻まれている。)

この鎮魂碑は、城下の下田で防火用水の池を掘ったところ、石で囲んだ墓の中から首が5つと銭が出て来たので、城山に

鎮魂碑を建てて現在も慰霊祭をしているようである。


寄子として平瀬城籠城で父親の兵庫守を亡くした丹後守の子(丹後守の子は政勝といい、天文10年出生で父と共に和州

に退去して信長に出仕し天正5年に信州に還住して天正10年に信長より吉野郷の禁制をうけ信長滅亡後は小笠原氏の

配下となり天正18年小笠原家より感状をもらう。後に石川家の代官となり元和元年9月8日卒す)

は天正18年(1590)に豊臣秀吉が小田原の北条討伐を始めると、小笠原貞政は秀吉の命により出陣し丸山丹後守

(政勝)は留守を命じられており、この時にこれまで平瀬氏に対して代々の忠節によって寺所・吉野両郷の中に50貫文の

地を出し置くので、いよいよ戦功を抽きんじてほしいという文書を小笠原貞政からもらっている。


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本郭から見下ろした堀切(籔だけど。。。)

本郭と堀①との低さが約7~8mほどの高さで、切岸が鋭く防御が厳しくなっている。


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堀①を見る。

堀①は幅が広いものの深さが無く、本郭の防御は切岸に頼った造りになっていて、このあたりは平瀬氏時代にもこのよう

なものであったと思われる。


『追って今度陣中つゞけの儀、油断有るべからず候、以上     平瀬代々の忠節浅からず候、然らば別して奉公せしむ

べきの旨候の間、吉野・寺所両郷において、合して五拾貫文の地を出し置き候、この旨をもって戦功を抽きんずべき事

肝要候者なり、仍って件の如し       天正十八年正月廿五日 (黒印)       丸山丹後守殿』

とある。

丸山氏以外にも平瀬氏の寄子として考えられる者として、熊倉の代官である丸山出雲、下野・鳥羽の丸山管三、飯田の

飯田右馬允、竹内筑後、中曽根の四郎右衛門尉などが見られる。


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本郭から郭③の間の尾根には大小4本の堀切と複数の竪掘が掘られており、執拗に防御を固めている。

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尾根の斜面には美しい竪掘のシルエットを見る事が出来る。

城下の下田には逢沢姓が多いが、この逢沢氏の故地は甲州のようで移住を命じられてきたものらしく、『高白斎記』による

と平瀬城攻略後『二十八日に午刻巳の方向に向かって平瀬城を割り、その上鍬立、(中略)十日原美濃守を平瀬に在城

仰せつけらる』とあり、小岩嶽城攻めの前線基地として逢沢氏らはその配下の在城衆であったものと思われる。


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郭③は尾根の形状に沿って不規則な三角形をしている。

ここの郭は郭④から①の間での中間の防御拠点としての役割と城兵の居住地との郭であったと考えられる。

この郭の特徴として郭の北側下に横掘が構築されており、南城との共通性を見る事が出来る。


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郭③の北側下にある横掘を見る。

横掘はほぼ埋まってしまっているが一部は残存し、横掘の端の両側は竪掘として落とされている。


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横掘から落とされた竪掘を見る。

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郭③から見下ろした堀⑤ 

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堀⑤を横から見る。

堀⑤は上幅20m・深さ10m程の城内最大の堀切で両側を竪掘としておとしている。

この先には郭④と堀⑥があるが、この堀が尾根続きで最大の防御施設として構築され、ここで敵を食い止めるという、

強い意志を窺わせる巨大なものとなっている。


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郭④を搦手側から見る。

郭④は高さ1m程の土塁で周囲を囲むように造られた郭で、搦手側に対する馬出ではないかと考えられている。

この馬出説を否定する説もあるが、武田氏が搦手側の山田道から攻めてこの平瀬城を落としたのが本当であれば、落城

させた武田氏・その事実を知っている小笠原氏がこの弱点を放置しておく筈はなく、ここに防御拠点・出撃拠点を設けるの

は自然なことであったのではないだろうか。


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堀⑥の竪掘を見る

城内最後の防御施設である堀⑥は、掘り切らずに土橋としており、防御のしやすさと出撃のしやすさを兼ね備えたように

なっていて、竪掘部分は防御のために幅が大きくなっていて、敵の斜面移動を警戒している。



以上、平瀬城を長々と(汗)紹介してきたがいかがだったでしょうか。

平瀬城と平瀬南城との共通性を見出すことが出来、武田氏の改修の痕跡は窺い知れず分かるのは小笠原氏の

改修が大きくされたであろうことであろうか。

山田道を敵に使用されれば、簡単に岡田方面に抜ける事が出来直接に府中(深志)に到達してしまう事から、小笠原氏

が重要視したものであろう。

武田氏が攻め落とした平瀬城はどこか?。。。。。。。。。。。。。。。証明する事は難しいであろう。



~ 参考文献 ~

信濃の山城と館   松本・塩尻・筑摩編          (宮坂 武男)

豊科町誌                            (豊科町誌編纂委員会)
  1. 2014/09/10(水) 20:02:29|
  2. 松本市
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松本市   伝武田信玄陣場跡

この口伝は本当の事を伝えているのか。。。。

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伝武田信玄陣場跡と平瀬城砦群                国土地理院2万5千分の1地図使用

所在地・・・・松本市島内                                 訪城時間・・・・・3分

危険度・・・・★☆☆☆☆(一応、バリケードがあるので地元の方の了承が必要


この武田信玄陣場跡は、天文20年に小笠原領内で孤軍奮闘していた平瀬城を武田軍がここに軍を置き攻めたと伝わる

場所で、古文書や文献には出てこない。

ただ地元の口伝として伝わったようで自分が知ったのは信濃史学会が発行している「信濃」の中の「小原 稔」氏が投稿

した論文「長野県松本市城山丘陵の砦伝説について」を読んでいて。。。。。。!!!!

こんな話は聞いたことが無い!  これが本当であれば新説は吹っ飛んでしまうのではないか。。。。。

と思い調査してきた事を書いて行きたいと思います。


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陣場配置図

この陣場跡説が真実味があるのは、この陣場跡から北西尾根を下れば平瀬南城へ直接通じていることと、平瀬本城を

見下ろす位置にあること、岡田から通じる山田道を辿れば簡単に辿り着く位置にあることにある。


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陣場跡へ通じる道(入り口には簡単なバリケードがあるので近所の方に許可をもらおう)

山田道は蟻ヶ崎にある城山公園(犬甘城)から豊科カントリークラブのある尾根上を通過していたようで、この道を辿れば

(現在は車道などで分断されているが、アルプス公園周辺の遊歩道として残存)この尾根にも辿り着くことが出来る。


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現在は尾根を先端まで車道が開設されてしまい往古の状態は分からないが、道は尾根上を通っていたのであろう。

道の正面に見えるのは信玄が陣を敷いた御所山。


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陣畑遠望(尾根先端部)

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地元の方が建てられた陣畑跡の標柱

標柱の側面には「天文20年、武田信玄が平瀬城を攻めた時の陣場跡」との説明が書かれている。

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広大な陣跡

平成5年時点では、畑地であったようであるが、現状は小石などが交じる雑種地で籔となっている。

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陣畑と御所山の間には堀切状に沢が入っていおり、ここに自然地形を利用した防御施設があった可能性がある。

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沢の中を下ると、陣畑側には鋭い切岸が見られ畑地としてだけの造成とは考えられない。

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また、堀状の沢には写真のような石列が見られ、この堀状遺構がかつて道として使われていたことをうかがわせる。

この道について気になる記事が信濃にあり「神社裏(松隠寺の上には八滝神社がある)の急斜面をさらに登ったところ、

畑と思われる平坦地があった。位置から考えてかつて松隠寺と陣畑もくは平瀬南城へ通じる道があったのかも知れない」

とある。この記事にある道がこの石列部分がその一部ではないだろうか。

と考えればこの陣畑から平瀬南城へも通じる道があってもおかしくないのである。


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陣畑から見た新説の平瀬氏館跡。。。。どうみてもここから攻めるのは無理があるだろう。

そういへば何かの記事で、山田集落の人は尾根伝いに平瀬南城へ行っていたとあったが、それがこの山間部を巡る

山道を言っているのであり、武田軍もこの道を使用して攻めたのではないかと考えるが。。。。。


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陣畑の北側・西側には平瀬南城からの反撃に備えるように段郭が巡り、大きい所で約3mの高さがあり厳重な備えと

なっておりここは昔のままの遺構であろう。南側は車道により破壊されているが、急傾斜なために遺構は元々なかった

のではないかと考える。


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さらに平瀬南城のある尾根に向かって緩やかな傾斜が残る平坦地があり、大軍の駐屯が可能である。

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陣畑から信玄が陣したと伝わる御所山を見る。

御所山は車道により側面を大きく削られており、往古はどのような形であったかは分からない。


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ピークの一部、陣畑側には一段の段差が設けられている。

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伝信玄陣跡を見る。

山頂部は広い平坦地となっているが、人工ではなく自然のままのように感じる。平瀬城が1日で落城してしまったので

このようなものでもよかったのか分からないが、やはり一番眺望は利く場所である。


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御所山から見た陣畑

世間には出ていない口伝を紹介してきましたが、皆様はどう感じられたでしょうか。

古道の関係・平瀬南城との尾根続きの立地・新説平瀬氏居館跡との距離・残存遺構などを見てきましたが、結構ここから

武田氏が平瀬城を攻めたという説も可能性があるのではないだろうか。

これからの研究者の方がたにはこの陣畑にも触れて、解明してしていっていただけたらうれしいな。


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陣畑・御所山と平瀬城の位置がわかる遠望写真


~  参考文献 ~

信濃 第61巻1号  「長野県松本市城山丘陵の砦伝説について」   小原 稔
  1. 2014/08/01(金) 17:16:43|
  2. 松本市
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松本市  平瀬南城

搦め手尾根を切り刻んだ竪掘は何を意識したものか。。。。

所在地・・・・松本市島内下平瀬下田                      訪城時間・・・・・犀乗沢入り口より30分

危険度・・・・★★★★☆(登り口滑落注意!)

別 名・・・・上平瀬城(信濃戦国時代史に記載)


訪城日・・・・2008年12月20日・2010年1月10日

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平瀬城砦群と周辺の沢名・旧道・陣地伝承地

平瀬南城はかつて犀乗沢の北側山頂にある平瀬本城(北城)の支城として構築され平瀬氏により整備・管理され、

犀川の水運や犀乗沢沿いを通過する山田道を監視する為に存在してきたとされていた。

しかし、近年は天文20年に武田氏に攻められた平瀬城が、下平瀬にある川合鶴宮八幡社の境内がそれではないかという

新説が出されてきた。これは神社境内がかつての平瀬郷の中心地で千国街道にも近く、平瀬氏の本拠であった為に城に

籠った者204人(200余人とも)もの人たちが必死で抵抗し討ち死にしたのであろうとするもので、また山城の平瀬城では

狭く200人以上もの大勢が籠れない。平瀬城落城後に信玄が安曇郡攻略のための拠点として使用しており、攻める為に

いちいち山を上り下りしなければならず不便である。この二つを満たすのも神社境内にあった居館を改修した平城の平瀬

城の方が都合が良いというものである。

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犀乗沢が北沢と南沢に分岐する部分(平瀬城への看板があり)の突当たりが、旧山田道でこの分岐部分が平瀬本城と平

瀬南城への道の分岐でもある。


以前からこの山城の平瀬城の根小屋や平瀬氏の居館は麓の下田にあったと考えられてきたが、新説ではこれを否定し

下平瀬の川合鶴宮八幡社が居館であるとしてきた。これにより居館と山城は距離が大きく離れてしまい山城は平瀬氏の

要害ではないという事になり社地の居館が大きく改修され平城となり平瀬城と呼ばれたとされる。

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南沢最初の砂防ダム手前の斜面を直登する。(道は無い。)

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沢に接している部分の斜面は崖状になっており、その後も急斜面で道が無いので、滑落に注意が必要です。

では山城は誰のものであったのか。。。。。笹本氏や三島氏によると山城の平瀬城は、根小屋式の山城ではなく山城単独

に構築されたもので、犀川の水運・街道の監視のみの役割をもったただの押さえの城で、武田氏滅亡後に上杉氏に備え

て小笠原貞慶が築いたものではないかとしている。


古文書に見られる平瀬南城はどのように伝えているのだろうか。

「信府統記」には、「(前略)、城主分明ナラス、【古平瀬和泉守信義ト云フ人アリ、此辺ヲ領セルニヤ、松隠寺ヲ開基シテ、

今ニ法名モ残レリ、是犬養ノ一類タリシ、平瀬氏ナラン、右ノ(*平瀬本城のこと)両城モ彼ノ要害ナルへシ、其前後幾代ト云フ

コト分明ニ知レス、(後略)。】

「長野県町村誌〈中南信編〉」には、【村の艮、平瀬山、犀乗沢の南方にあり。東西十五間、南北二十間、回字形をなす。

往古平瀬和泉守居住せし由、土俗言伝ふと雖も、城名及其興廃、原由を詳にせず。】

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この図面に沿って紹介していきます。

「東筑摩郡誌」には、【本城の平東西八間、南北十五間、南北に堀切四通あり。往古仁科の分家犬飼氏の居城なりと

いふ。天文年間犬飼大炊介政徳爰に居る。天文十八年(*二十年の間違い)の秋武田の武将馬場信房来り囲む。

政徳既に中塔城に遁れ、城代戦没して城陥れり。】

とあり犬甘氏や犬甘氏一族の平瀬氏に関係する城跡であると伝えているのである。


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郭③を見る。

郭③は笹藪で詳細は見づらくなっているが、傾斜があり削平もされていないが手を加えたような跡が僅かに感じられる

ことから郭としたが、この尾根先が大手と思われるのでなんだかの防御施設があったものと思われる。


ここまで調べた結果、有名な研究者の方々はこの城跡は小笠原氏の築城で固まって来ているようであるが、伝承は本当

に間違った事を伝えているのだろうか?

そもそも。。。。。本当にこの時代に自分たちの兵力を大きく上回る敵が攻めてきて、平城とされる平瀬城に立て籠もるの

だろうか??・小笠原氏の一族で府中深志城を任されていた坂西氏ですら武田氏に降服しているのに小笠原氏の一族で

もない平瀬氏が何故防御が脆弱である平城に全滅覚悟で籠城するのであろうか?


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郭②は城内で2番目に大きな郭で、削平もしっかりされており大手側から攻めてくる敵に備えている。

郭の規模は15×6mの尾根の形を使用した細長い形状となっている。


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郭②から見た本郭

本郭は郭②から来るであろう敵に備え、切岸と土塁で防御を固めている。


この新説に関して疑問が3つほど湧いてくるのでここで挙げてみる。。。。。。。

①平瀬城が200人近くが籠るには狭いとされているが、その後に落城した小岩嶽城は落城以前に宿城が放火されていて

麓の本城と山上の要害のみとなっていたにもかかわらず、「妙法寺記」に書かれているが【(前略)、小岩嶽と申す要害を

責落しめされ候、打取頭5百余人、足弱取候事数を知らず候】と数に誇張があったとしても平瀬城の数倍の人が籠って

いたのに本当にそんなに多くの籠っていたのかの疑問に触れていないのが不思議である。特に要害部分の狭さは

平瀬城以上である。


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郭①(本郭)を見る。

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郭①に付属する土塁を見る。

本郭には東側(南沢側)を除いて土塁が構築されており、南側の堀切①に面した土塁が一番高くなっている。

なお、土塁の残存状況は良くなく西側土塁(国道19号側)は所々低くなっていて波打った感じになってしまっている。

形状は24×16.5mの楕円形である。


②平瀬城の城主とされる平瀬氏の開基である松隠寺は、平瀬氏の本拠とする河合鶴宮八幡社の館跡より山城の平瀬城

の方が近く、犀川をも挟んでおり遠すぎる。


③平瀬南城の尾根続きには、平瀬城を攻めた時に武田氏が陣を構えたと伝わる陣畑・御所山が存在しこれがもし本当で

あれば神社の居館を攻めるには高すぎて遠すぎる。(陣畑は近いうちに紹介します)

以上の3つであるが素人である自分には到底解ける疑問ではないが。。。。。一応挙げてみた。

どなたかこの疑問を解消していただける方はいるだろうか。。。。


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堀切①を横から見る。

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郭①の東側を防備する横掘

堀切①は竪掘として落とされる部分が角度を変え、郭①の東側切岸下を横掘となる。

横掘の先端はまた竪掘なり斜面を下っている。この横掘部分は平瀬本城にも一部見られる手法で築城者の共通性を

窺うことが出来る。


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城内最大の規模を有する堀切②を見る。

hirase324 (2)
堀切⑤を見る。

平瀬南城の搦め手側の尾根は大小5本の堀切により刻まれており、この城の防御の意識が搦め手側に向けられていた

ことが分かる。また、南沢側の傾斜が緩いために長大な竪掘となり最終的にはこれらの竪掘がまとまるという小笠原氏

の築城手法に多く見られる形となっている。


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南沢側中腹から見上げた堀切④⑤とそれぞれの竪掘

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堀切②③④⑤の竪掘が合流する部分を見下ろす。

私見として、もしこの山城の平瀬城が武田氏の攻めたものだとすれば平瀬氏が籠った頃には小規模な砦であり、武田氏

が後方の山稜を通過する山田道を使用して侵攻し、伝承にある陣畑・御所山を利用して平瀬南城を尾根続きから攻め下り

南城を占拠してこれを平瀬本城を攻める為の向城として活用した。


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堀切②③の堀切と竪掘を見上げる。

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竪掘①と堀切②③から落とされた竪掘の間には土塁を伴った郭が南沢から登ってくる敵に備えている。

平瀬本城は、犀乗沢を中を通る山田道側(大手)と山稜を通る山田道(搦め手)とから攻められた本城にいた城兵たちは

逃げる事が出来ずに全滅してしまった。

後に小笠原貞慶がこの平瀬城砦群を改修する際に、平瀬城の搦め手から攻められ落城した弱点を克服する為に、尾根

続きを堀切で切り刻む手法を使用した。。。。。。。。。。というのはいかがでしょうか。


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堀切⑤から落ちて来た竪掘の脇に削平された場所があり、水がたまっている。これが水の手の一つとおもわれるが、

南沢との比高差もほぼ無いので、沢から水を汲んだ方が早い気も。。。。。。


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斜面に刻まれた竪掘。。。。。惚れ惚れします。。。。!

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平瀬南城から平瀬本城を遠望する。

私見を前提とすると平瀬南城が武田氏に攻められ落城する場面や南城から後方山頂にある陣畑にかけて大量の武田兵

が駐屯するさまをみた本城の兵士たちは絶望のどん底に落とされたことであろう。


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平瀬南城を遠望する。

いかがだったでしょうか。

私見はあくまで素人の妄想ですので、研究家の方達の研究を否定するものではありませんのであしからず。

でも中々謎に包まれた楽しい城ですね。。。。これから研究が進むことを期待します。

次回は平瀬本城をお送りいたしますのでお楽しみに!!!


*冬季は猟師が入っていることがありますので注意が必要です。


~ 参考文献 ~

信濃 第45巻 第11号  山城平瀬城特集             (信濃史学会  平成5年)

信濃の山城                               (小穴芳実著  1988年)

信濃 第61巻 第1号  「長野県松本市城山丘陵の砦伝説について」   (小原 稔著   信濃史学会発行)

東筑摩郡誌                                (信濃教育会  1919年)

信府統記                                 (国書刊行会  平成8年)

松本市史  第ニ巻歴史編                      (松本市     平成8年)
  1. 2014/07/26(土) 00:05:15|
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松本市  中二子館

                    居館跡探しは大変です。

松本市笹賀には多くの居館跡・物見台が存在することはご存じであろうか。

「今村館」・「小俣氏館」・「神戸館」・「筑前屋敷」・「上二子館」・「中二子館」・「下二子館」・「陣台観」

と、この狭い地域に8ヶ所もの城館跡が存在するのである。

もちろん現在も子孫の方が住んでいたり、住宅地になっていたりリンゴ畑になっていたり。。。。。。

つまりは私有地なのである。

これをくまなく調査するのはかなりの困難が発生する。

所有者の理解と許可・場所を確定する為に情報をもつ方を探し出す時間。。。。。。。。。。

つまりは出会いとタイミングなのである。

たまたま散歩をしていた方が関係者であったり、近所の方で所有者を紹介していただいたり。

この笹賀の8ヶ所の場所の特定・調査に自分は2年間を費やしたのである。


       今回紹介するのは、図面を書くことまで許可していただいた中二子館跡です

笹賀の居館跡については宮坂氏もすべてを調査していない。

どうして知ったかといえば「笹賀地区誌」という区誌に唯一の記載があったことから興味を持ち調査を開始したが、

この区誌には大雑把な地図しか掲載されていない為に場所の特定から始めるという難題が立ちはだかった。


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平林一族が祀る祝殿

笹賀地区誌にはこの居館について、永禄十一年(1586)の朱印状に

『為本領之替地住吉之内参百俵被下置者也乃如件     跡部美作守奉

永禄十一年戊辰十一月二十三日御朱印

塩原三郎右衛門尉    坂井源右衛門   平林新左衛門尉  平林織部佐  大田大炊助 』 

永禄十一年頃は武田氏が駿河を攻略し、府中(松本)から水内へかけて領地を広げ永禄九年に牧之島城(信州新町)を

築城し、深志城代馬場房信が牧之島城代となり上杉氏への備えとして長沼城(長野市)を築城中であった。

そうなると深志城は戦術拠点としての意義を失い、兵站基地としての重要性の方が強くなってきていた。

府中の直轄地の兵糧米の増収・蓄積を計る為に、勘定奉行跡部美作守は内政の充実を試み、在地地頭を新任したのが

上記の朱印状に記載のあった五人であると見られている。


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北側から見た居館跡

更科の豪族であった平林藤右衛門尉正家は、牧之島城完成後に城代となった馬場信房の副将として有力寄騎となる。

正家は永禄十二年六月十七日伊豆で北条氏康との戦いにおいて戦死をしてしまったが、戦死までの間に正家は府中の兵站

地の補強を目論む跡部美作守へ一族の織部佐・新左衛門尉を送りこんだものと考えられる。

この二人が朱印状にあった平林氏で二子周辺の開拓を進めるために中二子・上二子に居館を設けたのであろう。

一方で正家は深志復帰を狙っていた小笠原貞慶に一族の平林弥右衛門を付け一族の安泰を計っていた。

武田氏滅亡後、貞慶の側近となった平林弥右衛門は入府により、

『小笠原貞慶(黒印)

平林弥右衛門下人諸役之儀者、惣ニテ普請免許者也、乃

天正十一年三月十日     二子之郷くないもん 』

と弥右衛門のとりなしにより平林織部佐・新左衛門尉の一族朗党が小笠原貞慶の保護を受けた。

天正十八年(1590)石川氏が松本城(深志城)入部以後に郷士となり帰農したとされる。


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居館跡の遠望   (この記事掲載については趣旨をご理解いただき許可を受けております)

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敷地内にある重厚な門

敷地内には居館時代のものではもちろんないが、重厚な門や蔵があり母屋は建て坪300坪とされる大きさである。

この中二子館は、前記の平林新左衛門の館跡で(上二子館は平林織部佐のもの)館の規模は二五間(45m)×三十五間

(63m)で土塁がありその周囲には幅二間(3.6m)位の堀をめぐらせていたとされる。


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居館の配置図

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居館の西側には、高さ約70cm程度の土塁と堀跡の痕跡を残す田圃が取り巻いている。

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西側から推定堀跡の田圃と土塁(笹の部分)を見る。

西側は土塁と泥田堀を利用して防御を施していたものと考えられ、厳重な防御が窺える。


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北側から見る。

北側には高さ約4mの土塁が歴然と残り迫力がある。また、北側には土塁に開けた搦手口と考えられる虎口が開く。


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北側の土塁に沿ってかつての堀跡と考えられる窪みが見られる。

往古は土塁と組み合わせた場合、城郭に匹敵するような厳重な構えになっていたことであろう。


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居館内部側から土塁を見ると高さが感じられるであろう。幅は4~5mほどあり分厚い。

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北側土塁に開口する搦手口

門はもう少しで崩壊しそうであるが、1年前に訪れた時には笹はここまで繁茂しておらず外側からも見ることが出来た。

小川村の武将の子孫でおられる大日方氏も言っておられたが、これだけ大きな屋敷を維持するには他人には分からない

苦労がある。

たま~に見させていただく者が、もっときれいにした方がいいだの何だの絶対言ってはいけないのである。


nakafutago4.jpg
館の東側を見る

東側は水路が流れており、かつてはこの居館の堀として利用されていたようで館側には水路に沿って約2mの土塁が残され


ている。


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館内部側から土塁を見る。

この館の土塁には必ず笹が繁茂しており、意図的に植えられたようである。

用途としては土塁の土の流失防止と目隠しであろうか。。。。矢竹ではないようなので。


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館の敷地内部を見る。

戦国時代の時などはここはどのように使用さていたのであろうか。。。。興味が尽きない。


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館内部に掘られた井戸を見る。

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館内部から北側の土塁を見る。

この館は北側に防御の重点を置いていたようで、北側の土塁が他の土塁と桁違いに高く、幅が広いのである。

そう考えると往古は北側に大手があったとも推定できるのではないだろうか。


nakafutago5.jpg

土蔵にあった家紋?であるがネットで調べても名前が分からなかったが『荒波』に似ているようだが。。。。。。

知っている方教えてください。


中世の居館後跡はいかがだったでしょうか。


この館も代々子孫の方が守ってこられており現在まで伝えてこられたことの大変さを感じました。

また、急に訪問したあやしい(?)者を信頼下さり隅々まで調べさせていただいた上に、ネットの掲載をお願いした際に

『この館の事が記事となり残るなら。。。』と快く引き受けていただきました。


また、この館を見つけ出すまでに色々な方にご協力いただきました。

この場を借りて心よりお礼申し上げます。

この平林家に関する古文書は松本市が保管しているようですので、興味のある方は調べてみてはいかがでしょうか



~  最後に ~

この館跡は私有地です。

今回は許可を得て入らせていただきましたが、決して無断での侵入・調査はしないようにしましょう犯罪です!


*この館は私有地ですので、周辺地図・所在地は記載しませんのであしからず。



参考文献

笹賀地区誌       (笹賀地区誌編纂委員会)
  1. 2014/02/07(金) 23:49:39|
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松本市  中村館

安曇南部の雄 西牧氏城砦群⑧  西牧氏初期の居館跡

nisimakinotoride1.jpg
西牧氏関連城砦群配置図          国土地理院 2万5千分の1地図使用


所在地・・・・松本市梓川梓字上野                   訪城時間・・・・0分

危険度・・・★☆☆☆☆                         別 名・・・中村西牧氏居館

訪城目印・・・・鞠子神社                        訪城日・・・2008年7月13日・2010年12月27日



            ~ 中村館の歴史 ~

中村館は中村部落の略中央で段丘の縁辺、最も東に突出せる部分に位置しており、段丘下には降旗田園(旧降旗牧)

を一望に収め梓川の右岸にある波田町(現松本市)と相対している。

この地域で最も古い道とされるのは鞠子神社の前を通じている横道(千国街道)であり、この千国街道は西牧氏が

中村居館を構えてから開かれたものであるとされている。


nakamurayakata11.jpg
古い歴史をもつ鞠子神社(この前を通る道が千国街道とされている)この日はお祭りでした。

この中村館の構築時期は、西牧氏が牧官として移住してきた頃に築かれたものと考えられておりこの頃は防御施設

は設けられて無かったものと見られ、現状でも他の西牧氏の城館のように明確な防御施設は見られない。

ただ、中世となり居館を於田屋に移すとこの中村館は西牧氏の支館としてや段丘下の降幡田圃から上がってくる

胡桃坂・神田川坂を押さえる砦・木曽・飛騨方面に備える為の周囲の小砦をまとめる為の中心的な砦としての役割

を担っていたものと思われ、段丘縁にある帯郭はこの頃に防御として手を加えたものとみられる。


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この図面に沿って紹介していきます。


              ~ 中村館の現状 ~

~ 郭①(御頭) ~

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中村館の中心部とみられる「御頭」地籍で、2008年8月時点では広大な平坦地(北安曇郡誌では宅地表記)であっ

たが、2010年12月には写真のように新しい家が建ち始めており2013年では畑地にもなっていたので現在は無断で

は入れない可能性が高いので地権者の許可を得てから見学をすることをお勧めします。


nakamurayakata2 (2)

nakamurayakata2.jpg


御頭地籍の段丘縁部には、高さ約1mの土塁状の土盛りが築かれているが北安曇郡誌の図面には記載がないことから

これは後世の家や畑に関係するものと考えられるのでこの御頭地籍では館に関する城郭遺構は確認できないことになる。

ただ、図面にも記載しているように御頭地籍の東側には「古道」と伝えられる細い道は、古い時代には段丘縁部を

通っていたとされているので中村館の虎口(入り口)は東側に開いていたと想像できる。


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御頭地籍の北側の道路(車がある所)は「新道(あらみち)」と検地帳に記載されている道で居館廃絶後に造られ

たものでこの道により居館の北側の境界は分からなくなっている。


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御頭地籍から見る戦国期の改修と考えられている帯郭を見下ろす。

(縁部の高まりは後世のもので土塁ではないと考えられる)


~ 帯郭 ~

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中村館の帯郭は、通常の城にある帯郭とちがいニの郭となるほどの大きさをもっており本郭(御頭)側には、

約2mほどの切岸が構築されている。


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この帯郭には、多くの湧水が確認でき居館の水の手として利用されていたことはもちろんだが、現在でも(?)

神田川部落の水道水源地となっているものもあるほど水に恵まれている地に居館は構築されている。


nakamurayakata5.jpg

帯郭と帯郭の間には写真のような竪掘状の窪みが斜面を落ちているが、山城探訪の図では沢のように書かれている

ので自然の沢であったろうが防御としても役に立ちそうである。


nakamurayakata8 (2)

この帯郭は、上記の自然の沢を挟みながら胡桃坂と神田川坂の間に長く構築されていて居館の大きさがうかがえる

が、この居館の始まりが古いせいか明確な区切りや範囲が分からないのが難点となり居館の全容が解明されていな

いのが現状である。


この居館について研究している資料がほぼ皆無に近く、他の地域の残りの良い城館が研究対象となってしまってお

りとり残されている感じをうけるが確かにここにあった中村館・・・・・・誰かこの居館の全容を解明してほしい

ものである。(他力本願的な考えかな)

それにしても、住吉の庄や北条の地を小笠原氏に奪われ田屋に本拠を移した西牧氏はどこに居館を設けたのであろ

か、さすがにあんな高所にある田屋城に居住はしていなかったであろうし。。。。。。

これに関して論じている資料にはめぐりあっていないのであるが、中村館に戻ったってことはないか。。。。な。



~ 参考文献 ~

山城探訪 補遺資料編 中南信版        (宮坂 武男)

北安曇郡誌                  (北安曇郡誌編纂委員会)

梓川村誌                   (梓川村誌編纂委員会)
  1. 2013/07/03(水) 02:31:35|
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