長野県の歴史を探し求めて

長野県内にある城跡・石造物などを探し求めそれらを紹介していきます。

スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。
  1. --/--/--(--) --:--:--|
  2. スポンサー広告

安曇野市  二木豊後屋敷

小笠原氏の重臣二木豊後守屋敷推定地

所在地・・・・安曇野市豊科一日市場

訪城時間・・・・0分

危険度・・・・★☆☆☆☆  
 

※住宅街なのでプライバシーには配慮が必要です。

訪城日・・・・2008年7月5日・2014年12月26日・2015年7月23日


s-IMG_20150729_0002_NEW.jpg
木一族の屋敷跡配置図                         国土地理院2万5千分の1地図使用

二木豊後屋敷は、一日市場長徳寺跡1710番地で一日市場北部町尻の西側に当たる。

裏堰と裏道(西村経由の千国道)の間の場所であるとされる。

享保6年(1721)の『一日市場村書上帳』によると、東西30間(55m)、南北20間(36m)の20アールで周囲を土手が囲っている。


futatugi1245 (5) - コピー - コピー
一日市場村書く上帳に見られる二木豊後屋敷                         三郷村誌より転載

豊後屋敷は阿弥陀堂墓地東側から北へ伸びる西村を通過する千国海道沿いで、堂川から分流している西川に沿い、南から

善導寺跡(現真光寺)・宝積院跡・阿弥陀堂跡・長徳寺跡と古い時代の寺院が連なる地続きにある。


fytatugi4309 - コピー - コピー
二木豊後屋敷周辺の史跡と街道

bunngoyasiki12 (51)
一日市場公民館となった長徳寺跡

bunngoyasiki12 (2)
二木山長徳寺跡の碑

bunngoyasiki12 (4)
長徳寺跡と千国街道(写真手前の道)を挟んでかつて存在した阿弥陀堂跡の墓地を見る。

bunngoyasiki12 (5)
阿弥陀堂歴代住職の墓を見る。

bunngoyasiki12 (38)
千国街道と長徳寺跡(奥の林)

fytatugi4309 - コピー
古図の豊後屋敷の近くに見られる千国街道のクランク

bunngoyasiki12 (30)
古図に見られるクランクは現在も見られ、屋敷の防御として意図的に曲げられた可能性がある。

fytatugi4309 - コピー - コピー - コピー
bunngoyasiki12 (12)

平成13年9月に安曇野市教育委員会によってクランク北側の地籍が発掘調査されている。

調査の結果としては豊後屋敷に伴う遺構・遺物は確認できなかった。このことから屋敷跡は古図の通り、もう少し北側であろうと

推測されている。


豊後屋敷と言っても重高と寿斎が居りどちらかが住んだのか、両方の屋敷であったのかは分かっていない。

一日市場南には神明社境内に接している草間肥前屋敷、北には二木豊後屋敷と、交易の要衝(千国道)を掌握し、天正11年

(1582)に代官に任じられる以前から一帯を統治していたものと思われる。


bunngoyasiki12 (18)
千国街道に隣接して存在していたと思われる推定豊後屋敷

bunngoyasiki12 (13)

bunngoyasiki12 (24)

bunngoyasiki12 (26)
豊後屋敷は、西川を屋敷の防御兼水の掌握を狙ってこの地に屋敷を構えたのであろう。


二木豊後屋敷は現状、宅地・畑地となっているが、千国街道に隣接していることや、寺院が屋敷周囲に多く存在することなど

二木氏がこの地で大きな力を持って支配していたことがうかがえるのではないだろうか。

また、西川を屋敷の防御として使用し、西川の水を押さえることにより民衆をも支配していたのであろう。

このような立地などを見ると二木氏の在地領主としての顔も見えてくるのかもしれませんね。



~  参考文献 ~

三郷村誌           三郷村誌刊行会    平成18年

信濃の山城と館      宮坂 武男



大きい地図・ルート検索  ( powered by ゼンリン地図 いつもNAVI )
  1. 2015/08/26(水) 10:48:55|
  2. 安曇野市
  3. | トラックバック:0
  4. | コメント:2

安曇野市  二木土佐守屋敷

小笠原氏累代の重臣の屋敷跡

所在地・・・・安曇野市三郷二木本郷

訪城時間・・・・・・0分

危険度・・・・・★☆☆☆☆

訪城日・・・・・・2008年7月5日・2015年6月20日

※住宅地となっているので不法侵入などに注意


s-IMG_20150729_0002_NEW.jpg
木郷の二木氏関連の屋敷跡位置                                国土地理院2万5千分の1地図使用

二木土佐は二木重高の弟で、寿斎の叔父にあたる人で、戦国期の二木一族の中で豊後と共に活躍した人である。

二木久光家所蔵の系図によると、土佐には四人の子供があり、三男藤左衛門が居残って堀之内で農業に従事し、四男善左衛門

の子彦兵衛が小笠原氏に臣従して九州の小倉へ移住している。


futatugi1245 (4)
二木土佐居館跡古図                           三郷村誌Ⅰから転載

二木土佐は地蔵堂付近に居住したとされ、地蔵堂の東を流れる荒堰(温堰)を隔てて東西30間(55m)に土塁が残っていたとされる。

s-P2130478.jpg
二木土佐の屋敷の西側を流れる荒堰を見る。

s-P2130481.jpg
古図に記載のある地蔵堂と荒堰に架かる橋を見る。

futatugi1245 (3)
二木土佐屋敷推定位置                                   国土地理院2万5千分の1地図使用

s-P2130483.jpg

荒堰の近くの民家庭には土塁状の地形が見られるが、遺構であろうか?

s-P2130509.jpg

古地図にも記載がある屋敷の正面入り口であったと思われる『城戸口』を見る<。/span>

s-P2130494.jpg

屋敷の周囲には堀跡の残欠と思われる沼がかつては見られたようであるが、現状、屋敷跡の周囲は畑や田んぼとなっている。

田んぼが堀跡の沼跡であろうか。。。


s-P2130499.jpg
屋敷の周囲に見られる小路と築地塀がかつての在地土豪の屋敷の雰囲気を感じさせてくれる。

s-P2130504.jpg
屋敷跡推定地には二木土佐守の屋敷跡の標柱が建っている。

戦国の激動の時代にうまく生き抜いた二木一族の中でも、中心的役割を果たした土佐守の屋敷跡で、現在は遺構は見られま

せんが、何故この位置に屋敷を構えたのかなど、想像しながら探索すると面白いかもしれませんね。


次回はこちらも遺構はありませんが。。。。。二木豊後守の屋敷跡を紹介したいと思いますのでお付き合いください。


~ 参考文献 ~

三郷村誌                     三郷村誌編纂委員会
  1. 2015/07/30(木) 20:18:56|
  2. 安曇野市
  3. | トラックバック:0
  4. | コメント:0

安曇野市  中塔城③尖屋敷

要害中塔城の根小屋と防御

所在地・・・・松本市梓川梓中塔

訪城時間・・・・・0分

危険度・・・・・★☆☆☆☆(周辺には民家があるので注意)

別 名・・・・・佐渡屋敷


nakatousyuuraku.jpg
中塔集落と尖屋敷                                                グーグル地図使用

中塔集落と城については「二木家記」に、『某か日頃妻子を置申候中塔の小屋と申ハ、一段堅固の地を城郭にこしらえ、兵糧米籠

置申候、南北切たる谷にて東は山の尾先岩石也、〔後略〕。』とあり、南北両黒沢の深谷によって囲まれた舌状台地上にある中塔

集落と城山から構成されていた要害であった。

また、『二木家記』には「中洞へ(小笠原長時が)御上り候て三日目に、晴信公中洞の城根小屋へ御馬を被ㇾ為ㇾ寄、惣軍を以て

被ㇾ責候」とあることからも中塔集落は根小屋で防御施設も備えていたことが分かる。


~ 南構 ~

nakatousyuuraku210 (20)
南黒沢を見る。

南黒沢は幅が広く広大な谷状地形となっており、古道(氷室道)が通っていた。


nakatousyuuraku210 (22)
中塔集落への入り口の構を見る

「信濃の山城」では、この辺りに「はざま」と称する段郭の構が掲載されている。しかし、現在では見ることはできないが、かつては

小室と南黒沢の底を通る古道への備えとして集落の入り口に郭を配していたことが分かる。


nakatousyuuraku210 (18)
集落の入り口に見られる古い道祖神

~ 古道 ~

nakatousyuuraku210 (44)
南黒沢の底を通過する古道を見る。

nakatousyuuraku210 (40)
古道が小倉の台地上に出る部分を見る。

nakatousyuuraku210 (41)
南黒沢の古道から見上げた尖屋敷

南黒沢の底を通る古道から見上げると、中塔集落(根小屋)がある台地の先端に構築された岩岡佐渡が詰めていたとされる。

南黒沢を通る古道は、小室集落から尖屋敷下で南黒沢を渡って中塔集落に入る道があり尖屋敷が何のために存在したかが想像

できるであろう。


~ 尖屋敷 ~

tonngariyasiki (6)
中塔集落(根小屋)台地先端部に構築された尖屋敷を見る。

現在は圃場整備により台地上の遺構は消滅しているが、かつての規模は南北90m×東西108mで台地側(根小屋側)には

高さ2.7m・幅6mの土塁と堀が築かれていた。


tonngariyasiki (8)

尖屋敷は現在、資材置き場と電波塔、山林となり明確な遺構は見られないが、構造的には西牧氏の西牧郷に見られる砦に似てい

るように見える。


tonngariyasiki (5)
尖屋敷の南側(南黒沢川)の斜面に見られる竪堀状遺構

参考にした資料には南斜面に竪堀が残る。とあるのでこれが尖屋敷唯一の城郭遺構の可能性が高い。

tonngariyasiki (7)
尖屋敷から中塔集落(根小屋)と中塔城を見る。

nakatousyuuraku2.jpg

~ 根小屋 ~

nakatousyuuraku210 (29)
中塔集落を見る。

中塔城は平地からはかなり高山の山奥に構築されているために、普段は生活の便の良いこの中塔集落に兵士や城主の居館や

屋敷があったとされているが、現状ではそれらの遺構を確認することができない。


nakatousyuuraku210 (23)
nakatousyuuraku210 (24)
中塔集落にある阿弥陀堂でよく中塔城への登り口の目安にされる。

nakatousyuuraku210 (26)
nakatousyuuraku210 (27)
中塔城のある山を守る山の神を見る。

山の神の北側に堀状に造られている中塔城への道が見られる。

この道は北尾根と南尾根の間にある俵窪と言われる沢を緩やかに登ることからここが大手道であったのであろうと考えられている。


~ 北構 ~

nakatousyuuraku210 (7)
南小倉方面から北黒沢を見る

nakatousyuuraku210 (6)
北黒沢を渡った道が中塔集落へ入るための切通しの構が残る。

切通しの東側には「はざま」と呼ばれる段郭が中塔集落を守っている。

nakatousyuuraku210 (10)
nakatousyuuraku210 (15)
北黒沢からの道に防御施設として構築されたと思われる段郭を見る。

武田晴信(信玄)は北黒沢沿いにある黒沢不動に戦勝祈願をしたと伝承されることから、晴信が攻めたとされる根小屋の構はこの

段郭であったのであろうか?

現状では三段ほどの郭が見られる。


nakatousyuuraku210 (2)
中塔集落(根小屋側)から見る北黒沢から上ってくる切通し道を見る

~ 黒沢不動 ~

kurosawafudou (18)

kurosawafudou (10)

武田晴信(信玄)が、中塔城を攻める際に戦勝祈願したとされる黒沢不動。

黒沢不動が北黒沢の沢奥にあることからも、晴信が北黒沢川から攻めた可能性が大きいと考えることができるのではないだろうか。



3つに分けて紹介してきた中塔城と周辺の遺跡はいかがだったでしょうか。

中塔城というと山上の城が中心に紹介されることが多いが、集落の構や尖屋敷が何故構築されたのか書かれたのが少ないので

少しこだわって書いてみました。

中塔城を訪れる際にこれらの事も少し調べたり訪れてみて総合して考えてみてもらえたらうれしいです。



~ 参考文献 ~

信濃の山城                (小穴 芳美   1988年)

梓川村誌                 (梓川村誌編纂委員会   平成6年)
  1. 2015/07/06(月) 16:46:18|
  2. 安曇野市
  3. | トラックバック:0
  4. | コメント:2

安曇野市  中塔城②

nakatou889 (4)
パート2この図面に沿って紹介していきます。

~ 本城部段郭 ~

nakatoo1 (--)
本城部の段郭を上から見る

登城路は堀状になっており、郭②の脇を通って郭①へ入っている。

段郭はこの堀状の通路の両脇に構築されており、往時は柵でも建てて人が通れる幅を制限していたのであろう。


nakatoo1 (28)
段郭を横から見る。

nakatoo1 (51)

段郭のほとんどはさらに北側の郭②の側面に回り込む形で帯郭状に伸びている。

これは北黒沢からの敵(武田氏か)に対して構築したものと考えられる


~ 郭② ~

nakatoo2 (5)
郭②の内部を見る。

郭②は中塔城内で最も防御的に整備が行き届いている郭で、削平が丁寧で唯一と言える土塁が見られる。

城内最深部手前の番所または関門的な位置付けのような郭となっている。


nakatoo2 (444

土塁は登城路と郭②を区別する為に設けられたものと考えられ、尾根に小規模な段郭を細かく刻む造りや通路と郭の境目に土塁

を造る手法は林大城や桐原城にも見られ、小笠原氏の手が入っていることを伝えている証拠と考えられる。


nakatoo2 (1)
通路側に構築された土塁を見る。

nakatoo2 (3)

土塁は郭①側では、カーブをして郭②を囲むように構築されている。ただし、北黒沢側には土塁は無くすぐ下に帯郭状に段郭が

造られていて防御している。


~ 郭②と郭①の間の尾根? ~

nakatoo2 (18)

郭②では土塁により明確ば防御姿勢が見られるにも関わらず、郭②を抜けると一切の防御施設が見られる削平されたダラダラし

た尾根が続く。

通常の城郭であれば城の中心部の手前には土塁や堀切などの敵の侵入を防ぐべきものを構築するが、この中塔城には郭②を

抜けた敵を防ぐ防御姿勢が一切見られないのである。

尾根の防御施設と郭②ですべての敵を防げると考えられたのか。。。。

もともと防ぐ意思は無く奥の山へ逃げる時間が稼げればよかったのか。。。。。

それとも構築するだけの時間が無かったのか。。。。。。。


nakatou889 (4) - コピー

~ 郭① ~

nakatoo6 (8)
中塔城の中心部を見る。

小笠原長時が籠城したのはこの場所とみられ、山上に広大な平坦地が広がる。

ただ、他の城と違うのは一番重要な郭にも関わらず削平はされておらず、地山ままの状態で使用していたようで何故重要な場所に
全く手を入れなかったのかは分からないが、時間がなかったのであろうか。


nakatoo6 (5)
中塔城の記事では必ず登場する金比良社の祠

nakatoo6 (13)
堀状遺構を見る。

本城内にある堀状遺構で、通路として使われていたのであろうか?本城域は過去に開墾などの人の手が入っているので遺構か

は判断ができない。


nakatoo6 (21)
本城の南西隅に見られる矢倉台状遺構を見る。

この高まりは本城域で唯一削平された痕跡が見られ、高まりの上を削平と西側に一段削平した郭が見られる。

南黒沢から上ってくる道があるようなので、この道を監視する役目を追っていたものと考えられる。


nakatoo6 (20)
本城域の中心部を見る。

s-025.jpg

s-033.jpg

s-021.jpg
中塔城本城域出土の茶釜と古渡染付皿   (梓川アカデミアパーク所蔵)  許可を得て撮影しております。

本城域からは生活用品が出土しており、ここで生活していた人がいたことを物語っている。ただ、小笠原氏のものか在地土豪の

物かは不明。


~ 搦め手尾根 ~

nakatoo10 (4)
土橋状に続く搦め手尾根を見る。

nakatoo10 (12)

この搦め手尾根は尾根道を狭くするために、尾根の側面を削りだ㎜差をつけて土橋状に加工している。

nakatoo10 (2)

さらにこの土橋状に加工し細くした尾根にさらに竪堀を追加し、防御を強化している。

何故堀切とせず竪堀にしたのであろうか。。。。。

斜面の比較時緩い北黒沢からの敵の尾根の横移動を防ぐため。。。。。

いざという時に逃げるのに堀切では遅くなってしまう為。。。。。。。

たぶん後者であろう。

この城を最後まで守りきる気持ちがあれば、堀切を多用し防御を厳重にすることであろう。

黒沢山(標高2051m)からの敵は想定していない可能性もあるが。。。。。。。それでも堀切を入れるのが通常と考える。


nakatoo10 (7)
黒沢山へ続く道を見る。

しかし、堀切を入れていないのは、いざという時にはこの道を使って奥山を登り上高地・飛騨などへ逃れることを想定していたので

はないのだろうか。立派な道が残っているし。。。


nakatoo10 (8)
奥山を見る。

戦国末期には飛騨から豊臣秀吉に敗れた三木氏が梓川に逃れてきたり、西牧氏の最後の地梓川渓谷からは上高地を越えて

富山・飛騨へ抜ける道があったようなので、あながちなくもないと思いませんか?


~ 殿様水 ~

nakatoo10 (9)

搦め手尾根の土橋状遺構を越えてさらに山道を辿ると、300m程で道の脇に水が湧き出ている場所が見られる。

nakatoo10 (6)

これが殿様水と呼ばれる水の手であると思われる。以前はこんこんと湧き出ると記載があったが、夏に訪れた際は確認できなかっ

たので季節によっては枯れてしまっているようです。


nakatou325 (8)
中塔城遠望


長々と書いてきた中塔城はいかがだったでしょうか。

あまり手を加えていない天然の城塞とよく言われますが、広大な城域を細かく見ると防御施設を適切に備えた厳重な城であった

ことが分かっていただけたと思います。

殿様水もそうですが、1回では確認できず2回訪城したからこそ見れる遺構もあります。

時間・体力が許せば是非複数回同じ城を訪れてみることをお勧めします。


~  参考文献 ~

信濃の山城と館            (宮坂 武男)

梓川村誌                (梓川村誌編纂委員会   平成6年)

南安曇郡誌               (南安曇郡誌改訂編纂会   昭和43年)

三郷村誌                (三郷村誌刊行会     平成18年)

豊科町誌                (豊科町誌刊行会   平成7年)



大きい地図・ルート検索  ( powered by ゼンリン地図 いつもNAVI )
  1. 2015/06/24(水) 18:45:59|
  2. 安曇野市
  3. | トラックバック:0
  4. | コメント:2

安曇野市  小倉城

城主は誰だ?

所在地・・・・・安曇野市三郷小倉

訪城時間・・・・・40分

危険度・・・・・★★★★☆ (訪城には滑落・猿・熊に対する対策と注意が必要

訪城日・・・・2011年12月18日


                             ~ 立地 ~

小倉城は、北小倉の西北、尾根が南に向かって突出した場所にあり、標高970mで西面及び南面を鳴沢川が流れている。

南東に向かっては木々が無ければ松本平を一望できるが、北は北沢岳の尾根に遮られて展望は利かない。

また、南尾根から登る際は穴不動からとなるが、尾根の弛みまでの斜面は傾斜がきつく危険である。


ogura156 (4)
小倉城の立地と城址碑所在地と登城開始場所の穴不動                国土地理院2万5千分の1地図使用

ogura1 (3)
林道脇にある穴不動の入り口と城址碑

ogura1 (6)
旧三郷村時代の城址碑

何故この普通の人が登れないような場所に城址碑を建てたのか疑問を感じる。

せめて登城方法や道を示すべきではないだろうか?


ogura1 (7)

城址碑から鳴沢川に架かる橋を渡り明確な山道を辿る。

ogura2 (4)
登城路にある穴不動

ogura2 (3)
内部は荒れ果ててしまい、参拝者は途絶えてしまっているようである。

不動の由緒書の額は掲げられているが、字は薄くなりすべてを読むことは難しい。


ogura3 (8)
南尾根からの小倉城への登城路は尾根の弛みに出るまでは、傾斜がきつく踏み跡が不明瞭になるために迷いやすい。

また道を誤ると写真のような岩場となり危険度が高くなる。

ogura156 (3)
今回の訪城路と帰路

今回は穴不動から南尾根を登り、帰りは危険なため東尾根を止山ロープをたどって下った。


ogura145 (2)
城跡遠望

ogura3 (4)
険峻な尾根を弛みまで登ると大天狗様の祠が迎えてくれる。

ogura3 (3)
大天狗様の祠からは、緩やかな尾根の登りとなる。

。。。。。。。かなりシンドイガ。。。。。。

山は6月15日~11月10日までは止山となるので注意が必要です。


ogura5171 (2)
今回の訪城経路と遺構

ogura5171 (1)
この図に沿って紹介していきます。

~ 本郭 ~

ogura5 (3)
本郭内部を見る。

郭内部には小さな段差が見られ、広いところで16×25m、狭いところで12×7mの広さがあり形状的には三角形に近い。

北側の尾根伝いからの敵に備えるために土塁を備えている。


ogura5 (6)
郭の奥に低い土塁を見る。

北側尾根と本郭を隔離するために堀切が構築されているが、堀切に付属する切岸(壁)が本郭側で約4mあるために

土塁の高さは1m弱と低くてもよかったのであろう。


小倉城の城歴については『信府統記』には、

『(前略)、城主知れず。但し、此辺の地頭小笠原但馬守貞政、三郎次郎と言いしは貞政のことにや、又、其子にや、詳

ならず。同三郎次郎 天正十三年乙巳年卒す。

淨心寺牌所なり。然れば彼の人の要害なるべし。』とある。


~ 西帯郭 ~

ogura7 (2)
本郭から見下ろした西側帯郭

ogura7 (3)
本郭と西側帯郭の間の切岸は緩い傾斜で緊張感を感じない。

淨心寺に現存する位牌には『光明院殿一誉脱叟淨心大居士覚位』の戒名と『天正十三乙酉正月廿二日当寺十三主明誉

代改之人主五十四代清和天皇八幡太郎義家ヨリ二十七世主未末殊小笠原但馬守貞政仮名小笠原三郎次郎』

と記されており、『信府統記』の干支の間違いはあるものの年号が一致していることが分かる。。


~ 東帯郭 ~

ogura9 (7)

ogura9 (3)

本郭東下に構築されている東帯郭を見る。

本郭の東側にも帯郭が構築されており、西帯郭の切岸とは違い鋭くなっており高さも約3mほどもある。

ただ、東側・南側の山の斜面は厳しいためにこの帯郭以外は東・南尾根には防御施設は見られない。


ogura9 (10)

また、少し分かりづらいが東帯郭の北側、堀切①に面した場所には土塁が構築されていて堀切①を越えた敵が

攻め入ってくるのを警戒している。


小倉城は『信府統記』・『淨心寺の位牌』から小笠原但馬守貞政が城主と考えられてきた。

また、小笠原長時時代の天文年間(1532~1555)に作られた『分限帳』には、『旗本鑓備衆十九家の内』に

『高百八貫分  小倉山城主   秋山与一     十騎』  との記載も見られる。

小倉は小笠原氏が統治する以前は西牧郷の一部で西牧氏が統治していた。その時代にも西牧氏領最北端の地という

ことで何らかの物見や砦が置かれていたことが想像できる。

その後、建武二年(1335)の中先代の乱で南朝方についた西牧氏は勢力を失い、北朝についた小笠原氏に住吉庄の

地頭職を奪われ、西牧氏は西牧郷と住吉庄の僅かへと勢力が縮小されてしまう。

その後、紆余曲折あり(西牧氏の項参照)小笠原貞慶が府中に復帰すると武田氏侵攻時に裏切ったことを恨んでいた

貞慶により西牧郷すらも失い滅ぼされてしまった。これにより小倉は小笠原氏が領することとなった。


~ 堀切① ~

ogura10 (4)
北尾根続きから堀切①・本郭を見る。(堀底から約4mの高さ・幅は約14m)

ogura10 (6)
堀切を西側から見る

写真を見て分かるように堀切と言っても、掘り込みが浅く本郭側の切岸がメインの施設となっている。


小笠原貞慶が府中を復帰に復帰したのが天正10年(1582)でその後に小倉に小笠原貞政を置いて統治させていたもの

と考えられている。

ただその時代に細萱河内守に出された文章があり、差出人が小笠原貞正となっていて貞と貞で一字の違いが見られるのである。。


~ 堀切② ~

ogura123 (1)
西尾根から堀切②と本郭を見る。

ogura123 (3)
堀切②を見る。(上幅約6m・深さ約1m)

『三郷村誌』ではこの『貞正』『貞政』を考察している。挙げてみると。

①小笠原長朝の次男貞政・・・・・長男の貞朝の生まれが寛正2年(1461)であるので次男の貞政が寛正4年ころと考えても

貞慶が府中復帰が天正10年なのでこの頃には120歳前後となってしまいNG!

②小笠原氏が春近領の掌握のために島立へ入れたとされる島立氏に貞正がいる。しかし、天正11年生まれなのでNG!

③小笠原貞慶の嫡男秀政・・・・16歳で改名するまでは貞政と称していた。


~ 西尾根段郭 ~

ogura110 (5)
堀切②から尾根先端までには3段ほどの郭が設けられている。

貞慶の嫡男の貞政は、天正11年2月に父貞慶が属した徳川家康に人質として送られてしまう。この時、貞政は13歳で

あったとされるが、この時代の13歳は大人であったのであろうか。。。。

貞慶が府中を回復した天正10年から人質に行く天正11年まで小倉にいた可能性は年代からみて一番可能性がある

ように感じる。

ただ、貞政は元和元年(1615)に大坂夏の陣で真田幸村軍と戦い、子と共に46歳で戦死している。

淨心寺の位牌・信府統記との没年(天正13年(1585))に合わなくなってしまうのである。

宮坂氏の『信濃の山城と館』では、『(前略)、天正10年(1582)小笠原貞慶が府中を回復して松本へ入部すると一族の

貞政(真正)が当地の小倉城へ配され、安曇郡の軍事行政を委任されたという。天正13年に貞政が戦死したため、その子

三郎次郎が継ぎ天正19年に小笠原氏が下総の栗橋に転封されるとそれに従って去ったと伝える。(後略)』とある。


~ 帰路 ~

ogura156 (1)

帰路はさすがに登城路を下る勇気が無かったので、東尾根を下りました。

東尾根上には堀状の道があり(途中で消滅)道に沿って止山のテープが伸びていたのでこれを辿りました。

テープは尾根の途中で南斜面を下っていたので、これに従う道は無く傾斜が40°近くあるが木があるので危険度低い。


ogura156 (2)
着いた先は登城路に向かう際に通過した神社の近くにあった墓地でした。

小倉城は山下を通過する飛騨への間道や鳥川流域(岩原城方面)へ通じる道があったことにより、これらの道を押さえる

ために造られたものと考えられる。そのことは城の防御施設が尾根続きや西側に偏っていることからも想像できる。

城主は小笠原氏一族であったようであるが、規模が小さく本当にそんな上級者が守る城とは思えないが。。。。。。

一時的な緊張時に改修され小笠原氏の領土が北へ広がっていく過程で大きな存在意義は失われていったものと考え

られ、下総転封時には廃城となっていたものと思われる。


小倉城はいかがだったでしょうか。。。。かなり長くなってしまいましたが(汗)

遺構は良好に残されていますが、登城路が明確ではないので危険と感じたら引き返すことをお勧めします。

趣味で命は落とさないようにしましょう!!


ogura145 (1)


~ 参考文献 ~

三郷村誌                        (三郷村誌刊行会   平成18年)

信濃の山城と館                    (宮坂 武男       平成25年)
  1. 2015/05/17(日) 18:11:33|
  2. 安曇野市
  3. | トラックバック:0
  4. | コメント:6
前のページ 次のページ

プロフィール

ていぴす

Author:ていぴす
見に来ていただきありがとうございます。
現在の長野県内城跡訪城数は   814城です。

少しずつ増やしていきますのでお楽しみに!
写真にはこだわっていきます!

最新記事

最新コメント

最新トラックバック

月別アーカイブ

カテゴリ

未分類 (0)
初めまして (1)
信濃の武将 (11)
松本市 (47)
安曇野市 (33)
塩尻市 (15)
筑北村 (5)
生坂村 (36)
池田町 (18)
箕輪町 (13)
伊那市 (7)
辰野町 (2)
下諏訪町 (9)
諏訪市 (1)
中川村 (3)
駒ケ根市 (6)
ニュース (4)
廃村 (1)
伝説 (2)
本日の訪城 (14)
飯島町 (1)
武将の墓地 (4)
松川村 (3)
千曲市 (1)
南箕輪村 (1)

検索フォーム

RSSリンクの表示

リンク

このブログをリンクに追加する

ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

QRコード

QR

上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。