長野県の歴史を探し求めて

長野県内にある城跡・石造物などを探し求めそれらを紹介していきます。

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松本市  桐原城附番所群②

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今回は。。。。武石道が武石峠のある尾根上へ出た場所にある大坂番所をご紹介していきたいと思います。

ただ、大坂番所は絵図では中々分かりずらかったので、ありそうな場所を四か所ほどピックアップして探索しました。

ですので今回は大阪番所推定地紹介とさせていただきます。


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大坂番所がある場所の絵図から読み取れる特徴は、

①めくろうし沢と御くら沢の間の尾根を登り切った場所の近くのピーク手前の斜面。

②番所の後ろ側に桐原からの道が登ってきている。

③番所の下へ御くら沢の支沢が登ってきている。

これらの特徴を現在の国土地理院地図で探してみると。。。。。。


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推定地①と②が当てはまりそうな感じであるが。。。。。。探索の結果は。。。。。

~ 推定地① ~

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推定地②を2エリアに分けて探索しましたので分けて紹介します。

エリア①

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エリア①は、古道がピークより北側を通過して居る為、ピーク上や南側には遺構は見られなかった

また、絵図から見た番所後方へ登ってきている古道も確認できなかった。



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ピーク南側を通過する古道を辿ってピーク上を目指して登ってみるが、人工的な平地を確認することはできなかった。

現在の古道は藪の下となっており、辿るのがかなり厳しかった~。。。汗



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地形図から見るとエリア②は広大な平坦地の様に見えるが、現地を確認すると緩い斜面となっており、古道、人工的な地形は

確認することができなかった。

この事から大坂番所推定地①は、大坂番所の地ではないと考えられる。


~ 推定地② ~

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推定地②は地形図上で緩やかな登りとなっており、古図上でも斜面に番所が設けられているように描かれていることから一番に

期待できる場所であったが。。。。。。。。


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推定地③は、古道が緩い傾斜を登っているが、人工的な遺構や背後に古道は確認できなかったの

で、ここも大坂番所では無いものと考えられる。


~ 推定地③ ~

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推定地③で見られた武石道の跡と地形を書き取った図

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推定地③は現在の美ヶ原林道より約15mほど登った尾根上にある。

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尾根上には削平地と鉄塔が建てられいる。

武石道のつながりを見ると。。。。。。。。。。


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尾根の下から武石道が登ってきて。。。

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尾根上の削平地脇に到達する。

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更に後方には桐原からの古道が登ってきており、古図と同じような様相が見えてくる。

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桐原から登ってきた古道は、尾根を堀切状に横切って登っていく。

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古図と比べてみると。。。。武石道と桐原からの古道が交わる場所となっておりこの推定地③が当てはまるのではないだろうか?

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大坂番所はこの尾根の先端の削平地あたりが番所跡と推定する。

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大坂番所跡と推定される削平地。

古図では堀切が描かれているが鉄塔の建造で破壊されたものと思われる。


今回は長くなってしまったのでこれまで!!!

次回は残りの番所群を紹介し終わりとしたいと思いますので、お付き合いくださいませ!
  1. 2015/11/19(木) 02:55:50|
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松本市   桐原城附番所群①

気になってしょうがなかった武石道の番所達を訪ねる冒険。

所在地・・・・・松本市里山辺

訪城時間・・・・全てで8時間~9時間

危険度・・・・・★★★★★


※かなりの山奥なので単独行動は危険。また、熊・猟師・遭難に注意が必要

訪城日・・・・・2014年11月16日・2015年10月29日

この桐原城後方の山奥に存在する番所を知ったのは、松本市教育委員会主催の勉強会の資料とと資料館の古図を見たことである。

この古図に関連する武石道については、小笠原長時が武田信玄に府中を攻められた時に一時、桐原氏の居城である桐原城に避

難し、その後、桐原氏と共に武石道を通って村上氏の塩田城へ逃げた。

その時に、この道を使って武石峠を越えて小県まで行った事が分かっている。

現在残されている古図を見ると、武石道の起点が桐原城の麓から始まっており、城の存在意義として武石道を押さえる為に構築

されたことが分かる。

その為に長時は武石道を使用して逃げるために桐原城へ拠ったことが見えてくる。

また、長時が無事に逃げ遂せたのも桐原城の管轄が桐原城だけではなく、後方の尾根にある番所や砦までであり、これらの番所

や砦はまだ武田氏に占拠されていなかったからではないだろうか。

古図にも残り、歴史にも出てこないが活躍したであろう番所や砦達に興味を持ち調べてきたくなった。

しかし、古図が残っているにも関わらず、調べてみてもWeb上では検索できなかったので意を決して訪問してみることにした。


まずは、往古の桐原城の姿や武石道を管理・監視していたであろう番所や砦を描いた古図を見てみる。

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『桐原城古図』

来歴として、博物館に絵図が持ち込まれた時期・経緯は不明。

内容は、現在の入山辺桐原地区から里山辺藤井地区周辺までを描いた絵図で、桐原城と桐原村、その背後の山々が絵の大半を

占める。(濃い黒字は教育委員会が資料用に加筆)

古図の書かれた時期として、享保2年(1717)に起きた桐原村VS薄町・兎川寺・上金井・荒町4村との山論に際して、桐原村が絵師

に描かせた絵図またはその写しと考えられている。


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『桐原古図(写)』              松本市教育委員会主催の勉強会資料より転載    原図は松本市立博物館所蔵

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古図から現在の地図へ番所・砦の推定位置落とし込んでみる。               国土地理院2万5千分1地図使用

これに。。。。。武石道を入れてみると。。。。。

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こんな感じになる。

ただ、探し出すにも目印となるものが欲しい。。。。。。。。。で古図にあるものを探し出す。

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目印はこの『鳥っ水?』とある水場。。。。。。。。これを探し出し谷・尾根の形状を参考にその他の番所を探すという作戦。

でそれらしきものがあった場所が上の国土地理院の地図に落とした場所となる。

よく見ると国土地理院の地図にある登山道と古図にある武石道がおおむね重なっておりとても探すのに参考となった。

2年ほどかかったけど。。。。。。。執念深いかな(汗)


~ 起点 → 鳥っ水 ~

アプローチ方法は、美ヶ原林道で武石道が桐原から鞍部へ登り切る、1258.9mピーク脇まで車で登り、そこから武石道を下る。

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桐原から登ってくる武石道を見る。

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石道を200mほど下ると道端に石仏が見られる。(2014年時はそのまま桐原まで下った。)

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武石道に見られた石仏

その石仏のすぐ近くに。。。。。

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大きな木があり木の根元には窪みが見られる。

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そこからは今でも水が流れ出ていた。これが『鳥っ水?』と思われるが。。。。。。もう一つ確認。

『桐原城古図』には『鳥っ水?』のすぐ下まで『めくろうし沢』が来ていることが見られる。

これを確認すると。。。。


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古図の通りかなり深く険しい『めくろうし沢』が来ていることを確認したことにより、この水場が『鳥っ水』と断定する。

これを起点に番所・砦を調べた結果を紹介したいと思います。

ただし、今回確認した遺構などから分かったことは、古図では『堀切』など書かれているが、多くは砦・番所に武石道を取り込み、

番所・砦地点で深く掘り込み堀状にしているものや、道を土橋状に加工したり、確かに堀切か?というものがあった。

これらは番所として武石道を取り込み道を加工することで、人の監視や多くの軍勢を通過することを困難にする事が大きな任務

であったもので、戦いを想定したものではない事がうかがわれた。

なので現地では、きれいに加工した平坦地や切岸はほぼ見られなかった。


~ 桐原の武石道起点→藤富塚・番所 ~

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武石道の起点から番所のある山を見る。

武石道の起点は桐原城の城下の一部で写真にある集落は、かつての桐原氏の重臣屋敷があった地であった。


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武石道の山奥へ続く入り口

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武石道は集落から離れると車道は終わり、山道の両脇には耕作放棄された畑跡と石積みが見られるようになる。

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さらに武石道を辿ると、めくろうし沢沿いを渡る。

このめくろうし沢の直上には目印となった『鳥っ水』が存在する。


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めくろうし沢には、現在では見られないような古い砂防堰堤と思われるものが見られる。

波状に組まれた石積みは美しく、これ自体が遺跡として保存されてもいいようなものであるが、惜しいかな誰も訪れない山奥に

ひっそりと放置され存在自体を忘れ去られているのであろう。


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武石道の起点周辺遺跡の配置図

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更に山道となった武石道を登ると標高930m(比高150m)地点に古図に描かれたそのもの番所遺構が現れる。

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古図に見られる『富塚・番所』

古図には多くの塚と堀切が描かれているのが分かる。


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武石道を登っていき尾根に着くと、武石道は堀状になる。

これが古図に描かれている番所で、堀切と思われる。


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堀状の武石道は番所部分を抜けるとカーブして尾根を登っていく。

この堀状の武石道には土塁が付属しており、いざという時には武石道を通る者を土塁上から攻撃を仕掛けることを想定して

いたのであろう。


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堀状の武石道に付属する土塁

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堀状の武石道がカーブして尾根を登っていくが、堀はカーブせずに浅くなっているがそのまま尾根を掘り切っている。

このことから堀状の遺構は武石道による掘り込みではなく、尾根を掘り切る防御のための掘り込みで『堀切』であった事がわかる。


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番所の建物はどこにあったのであろうか、平坦地を見ると堀状の武石道を挟んで山側は狭い平地があり、尾根の先端側には

写真のような広い平坦地がある。

現地を見て推定すると、武石道を挟んで山側の狭い平地と尾根先端側の土塁上に柵列を構築し、写真の尾根先端側には

番所の御小屋掛けをしていたものと思われる。


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ただ、この小屋掛けの平坦地には山下の上金井の集落から道が登ってきており、番所の土塁が虎口状に開いている場所から

堀状の武石道に合流している。(この道は『桐原古城図』にも描かれている)

この番所はこれらの古道の合流点に設けられていたようで、推定大坂番所や霜降城などにも見られる。


また、この上金井からの道に沿って、古図にもあるように『富塚』が築かれている。

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桐原古図に見られる冨塚(境ふじつか)は、大小12個見られる。

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現在は約7個しか確認できなかったが、古図の通り道の左側に大きな土盛(写真上)、右側に小さな土盛(写真下)が見られた。

また、この土盛から先の堀状の武石道の場所が番所跡であることが断定できる。


今回は猛烈に長くなってしまったので、今回はここまで。。。。。。。

番所跡の冒険は③まで続く予定ですので、どうぞお付き合いください。


今回紹介した『番所・富塚』はここ↓


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『鳥っ水』の場所はここ↓


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  1. 2015/10/27(火) 22:07:07|
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安曇野市   等々力城

仁科氏の重臣等々力氏の城

所在地・・・・・安曇野市穂高等々力

訪城時間・・・・0分

危険度・・・・・★☆☆☆☆

訪城時間・・・・2008年6月15日・2009年12月19日・2009年12月26日


※城域内は畑地となっているので時期に注意が必要。

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安曇野市穂高域にある城館配置図                             国土地理院2万5千分の1地図

等々力城は、安曇野市穂高の東部、穂高川の右岸の水田地帯に構築されている。

一帯は平坦地で南に欠の川が流れ、北側にはワサビ田があり、これらに挟まれた微高地に立地している。

そして、領地防衛として北方の北等々力には北城(貝梅城)・東方穂高川端にあら城(主水城)を配備している。


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等々力城立地                                            国土地理院2万5千分御1地図使用

等々力氏の初見は、応永7年(1400)の大塔合戦を叙述した『大塔物語』で、反守護軍の大文字一揆の仁科勢の中に、戸度呂木と

見える。

等々力氏の出自は明白ではないがこの頃に仁科氏に被官化していたことが分かる。

(※穂高町誌では等々力氏が海野氏からの出の可能性を書いている。)


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等々力城遺構配置図                               信濃の山城の宮坂図を参考に作図

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残存遺構を記入してみると意外によく残っていることが分かる。

天文20年頃には等々力氏は武田氏に配下となっており、仁科氏の親類被官として永禄10年の生島足島神社の神前起請文に

等々力豊前守貞厚の名が見られる。

武田氏の元で等々力氏が活躍していたことが分かる資料に、武田氏発給の文書がありこれに等々力氏が見られる。

天正5年9月5日の文書では、

『今度越州境遠近敵城まで、隠便として案内を遂げ、これに加えてかの城主の行、格法を密に見分くる条、微細注進を数え、寔

比類なき働き感慨の至り、尤も掌握の所これ如何かな、弥向後走り舞い、忠義を抽んすべき者なり』

これは、天正5年(1577)に仁科盛信が等々力次右衛門と細野甚四朗に宛てた感状で、この度両人が越後境の敵城へ隠便(密)

として案内をし、敵城主の行格法(きそく)を密かに探って微細に報告したことは、比類のないことで、その働きは感慨の至りで

あり、いよいよ向後走り廻って忠義を抽んでてほしい、ということが書かれている。

穂高町誌では、この敵城というのは越後の根知城あたりのことではないかとしている。


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等々力城の大手口。(ここからは訪城時期の違う写真が混ざっていますのであしからず)

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大手馬出に建つ城址碑。

次は天正6年の文書で等々力氏が見られる。

『越国境迄小谷筋荷物弐疋前相違なく通すべき者なり、仍って件の如し』

この文書は、天正6年(1578)2月12日仁科盛信が等々力次右衛門に越後境まで小谷筋への荷物馬二疋分を通行税を取らずに

自由に通すことを許可したものである。


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等々力城の大手を守る櫓台。

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櫓台上部の平坦地、ここにはどのような櫓が建っていたのだろうか。

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櫓台と共に大手を守る土塁

等々力城の大手は櫓台と土塁によって厳重に防御されていて、城の周囲も欠の川が巡っており往時も橋を渡って大手を通って

城内に入っていたものと思われ、かなり厳重な構えとなっている。


天正8年(推定)文書には、

『来礼披見、仍って不動山衆番替近日仰せつけられ候の間、弥御番普請聊油断あるべからずの旨、申し越さるべき候、随って

馬町毎年下知なされ候といえども、町人侘言故、一着なく候、然らば則ち、領中の馬幷に大町、真々部市の儀、この砌穂高へ引か

れ然るべく候、猶替儀重て申し越さるべく候、 恐々謹言』

この文書は、天正8年頃に仁科盛信が等々力次右衛門に宛てた書状で、次右衛門からの書状を見て返信したものである。

越後不動山衆の番替を近日中に仰せつけるので、いよいよ御番普請を油断しないこと、馬市を毎年開いているが、町人が侘言

して開催場所が決着しないので、仁科領の馬市の大町・真々部市を今回は穂高へ移して開きたいと思っている。

猶番替について重ねて申し越すはずである。という内容となっている。

ここでは、等々力氏達が越後不動山城まで城番として出張していることが分かり、上杉景勝と武田勝頼との和睦により武田氏が

越後不動山城まで進出していたものと思われる。


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郭内部から見た大手虎口と郭北側に残存する土塁上から見た大手虎口

次も天正8年の文書にも等々力氏が出てくる。

『一鳥羽・栗毛の馬、十八に来着候事、一夫馬如何様にも相調え、同日指越すべき事、一乗馬衆・同手明の者、毎度結付候間、

定武具等寄(騎)羅吟これあるべきか、今度嗜なき人においては、一途過怠あるべく候事、一新御軍法として、鉄砲持一切に御普

請御赦免たるべきの由仰せ出され候間、如何様にも過分に相調え候様に肝煎尤に候、一俄の出陣候間、不足の儀は和泉守・

将監・かたへ相憑のまるべき候事、一細萱河内守、同心、被官召し候連れ、十九に当府へ参着尤に候、一真々部同心・被官同前

の事、彼衆帰城候間、長生寺根知へ罷越さるべき事、一軍兵衛。小兵へ、是も十九に参着候事、一相残候道具、十人衆申しつけ

同日差越すべき事、一各立物の儀、かんばんを申し請け候間、両地在番衆は、今度の留守に支度尤に候、ひたきんたるへく候、

恐々謹言』

この文書は、天正8年頃仁科盛信から等々力次右衛門に宛てた書状である。

鳥羽、栗毛の馬を18日に来着させること、荷物輸送の馬をいか様にも多く調えて指越すこと、乗馬衆や主人の護衛に当る歩兵の

者に毎度言いつけていることであるので、定めて武具等の整備をよくしていると思うが、今度嗜のない人に対しては処罰をすること

新軍法として鉄砲持のものには一切御普請請役を免除するので、いか様にも過分に調えること、にわかの出陣で人数等に不足の

あった場合は、倉科和泉守・丸山将監方へ依頼すること、細萱河内守(穂高町)は寄子同心と被官を召しつれて19日に大町に参

着すること、かの衆が帰還したならば、替りに長生寺(渋田見氏・・・池田町)が、根知へまかり越すこと、松川軍兵衛(松川町)・

岡村小兵衛も19日に大町に参着すること、残った道具は小谷十人衆申しつけて、同日に差越すこと、おのおの甲の飾りの立物は

薄い銅板を付けることにしたので、不動山根知の両在地番衆は今度の留守に支度をよくすること、専一に忠勤を励むこと、という

ないようとなって等々力氏が直接、仁科盛信から指示を受け在地の土豪たちに支持を出す立場にいたことが分かる。


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北側に残る土塁を見る。(高さは約3m)

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等々力城の残存土塁と郭内部を見る。

武田氏滅亡後の等々力氏の動静を示す資料は見られないが、天正18年(1590)の豊臣秀吉による小田原征伐で小笠原秀政の

従兵に等々力善左衛門の名が見える。

松本城主石川氏の代の文禄5年(1596)宮本神明宮棟札に宮本神明宮造営の助成衆の中に郷士として等々力三衛門尉が見える。


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西側の城域を区切る堀を見る。

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堀切は欠の川へ落とされている事が分かる部分

『未だ申し承わず候と雖も、啓せしめ候、仍って大竜寺御指南をもって監物参陣、殿様の御備に踞り候由承り及び候、彼の者不届

物に御座候の条、只今に至るも拙夫許容致さず候、然りと雖も、当御陣中然るべき様に御取りなし頼み入り候、随って一種壱荷

進上致し候、御取り合せ仰ぐ所に候、委細大和五兵衛申し上ぐべく候、恐々謹言』

この文書によれば、等々力右衛門は大阪の陣に出陣しており、その陣に三枝元久が、子息監物が大竜寺の指南によって参陣し

ており、監物は不届者で勘当の身であるが、よろしく御世話を願いたいとの書状を送ったものである。

等々力氏は石川氏の家臣ではなく、郷士として名字帯刀を認められていたので、軍役を命じられていたので小笠原忠脩に従って

大阪の陣に参陣していることが分かる。

その後、等々力氏は元和・寛永年代に百姓になっており、一族は柏原・重栁等に排出しており、江戸時代に穂高組の大庄屋と

なっている。


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欠の川沿いには帯郭状の一段低い平地がある。

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穂高に根付いた豪族等々力氏の城はいかがでしょうか。

大きな城跡ではないですが、遺構がよく残る地域の宝ですから大事ににしたいものですね。

この間、城跡の近くを通ったら標柱が無くなってました。。。。。。残念。




~ 参考文献 ~

穂高町誌                     穂高町誌編纂委員会

信濃の山城と館                 宮坂 武男



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  1. 2015/10/05(月) 18:01:51|
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安曇野市   草間肥前屋敷

小笠原氏の重臣草間氏の居館跡

所在地・・・・・・安曇野市三郷盛一日市場

訪城時間・・・・・・0分(近年宅地化が進んでいるのでプライバシーに注意)

危険度・・・・・★☆☆☆☆

訪城日・・・・・2008年7月5日・2013年6月2日



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木氏関連の居館跡配置                                      国土地理院2万5千分の1地図使用

草間肥前は小笠原氏の譜代の重臣で府中付近に居住していたが、武田信玄と小笠原氏とn府中の戦いで林城が武田氏によって

攻撃された際に草間肥前は討死している。

その後、草間氏に後継ぎが無かったので二木土佐の二男源五郎が草間氏の養子となり、一日市場に移住したものと考えられて

いる。


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三郷村誌記載の草間肥前屋敷絵図                                             三郷村誌より転載

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草間氏屋敷の北隣にある神明宮

草間肥前屋敷と言われる場所は、一日市場の南西の下長尾と境にある神明宮の北隣とされる。

文化13年(1816)の絵図によると、屋敷跡とされる場所は水田となっていて、その南西に西側20間(36m)、南側26間(47m)のほぼ

直角の土塁と北側に幅4間(7m)の堀跡が見られる。


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2008年の神明宮境内

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現在の神明宮

草間肥前について天正12年(1584)と13年の知行地の年貢を記した『給地土地の調書』にその名が見られる。

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2008年時点の草間肥前屋敷

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現在の草間肥前屋敷

草間肥前屋敷は発掘調査もされずに宅地化が進んでおり、残念な状態となっている。

旧状と現状を記事として残しておく。

ただ。。。。。。。。。。。。記事にする内容が無かっただけですけどね(笑)



~ 参考文献 ~

三郷村誌                 (三郷村誌刊行会       平成18年)



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  1. 2015/09/26(土) 20:37:45|
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西牧氏城砦群。。。。ついにあと一歩

やっと終わりが見えた西牧氏城砦群

やっと終わりが見えてきたので訪れた西牧氏の城砦をも一度挙げてみたいと思います。

~  鞠子山小砦  ~      15年9月5日  訪城!!! !(^^)!            未掲載



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鞠子山小砦の本郭  (旧鞠子神社跡が鎮座していた)

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本郭裏の堀切


~  御田屋館  ~       未掲載

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西牧氏の居館跡で写真の説明板は嵐時に吹き飛んで所在不明!!

~ 北条城 ~        未掲載

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西牧の居館おたや館の詰めの城

~ 亀山城 ~      未掲載

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北条城の出城

~ 中村館 ~        掲載済み

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西牧氏初期の居館跡


~ 荒海渡砦 ~       記載済み

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西牧氏の領地を守る砦


~ 城ノ上小砦 ~        掲載済み

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西牧氏の領地を守る砦


~ 西林砦 ~             掲載済み

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西牧氏の領地を守る砦


~ 伊藤坂上砦 ~        掲載済み

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西牧氏の領地を守る砦


~ 桜坂上砦 ~           掲載済み

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西牧氏の領地を守る技巧的な砦


~ 長坂上砦 ~        掲載済み

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西牧氏の領地を守る砦


~ 本神沢端砦 ~        掲載済み

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西牧氏の領地を小笠原氏から守る境目の砦


~ 城日影砦 ~           未掲載

s-zyouhijage toride2222
飛騨からの敵を監視するための砦


~ 柳坂上砦 ~          掲載済み

s-yanagisakauetoride4444.jpg
西牧氏の領地を守る砦


~  小倉城 ~          掲載済み

s-ogura111.jpg
西牧氏が住吉庄の大部分を掌握していた頃に築城したと考えられる城


~ 長尾城 ~          掲載済み

s-nagao222.jpg
西牧氏が住吉庄の大部分を掌握していた頃に築城したと考えられる城


~ 中塔城 ~           掲載済み

s-nakatoo333.jpg
西牧氏が住吉庄の大部分を掌握していた頃に築城したと考えられる城


~ 田屋城 ~         未掲載

s-tayasiro 22222
小笠原氏に北条城をとられてからの西牧氏の詰め城


~ 大野田夏道砦 ~          未掲載

s-natumichi99.jpg
西牧氏が武田氏を裏切った際に籠った砦


~  かぎかけ山砦 ~           未掲載

kagikake64141.jpg

kagikake664.jpg
飛騨から通じる夏道を監視するために築かれた砦


あと一つ。。。。。。。。。。。。。。。。小笠原氏に追いつめられ息を潜めて一族と籠った殿様小屋。。。。。。。。。。

梓川渓谷の深い谷底を2時間掛かるという。。。。。。。。。。いつか訪れて西牧氏の城館跡をマスターしたいものです。
  1. 2015/09/06(日) 17:50:24|
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現在の長野県内城跡訪城数は   814城です。

少しずつ増やしていきますのでお楽しみに!
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