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長野県の歴史を探し求めて

長野県内にある城跡・石造物などを探し求めそれらを紹介していきます。

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松川村      布上城①

何のための築城か。。。。嶮峻な山頂に残された謎の城郭

所在地・・・・・松川村川西                           訪城時間・・・・・約2時間

危険度・・・・★★★★★(MAX)  

訪城目印・・・・伊の神霊園上の山頂

訪城日・・・・・2014年3月27日


本当に嶮峻な山頂にあり、登城路も長い為に体力に自信が無い方は控えるべき!また怪我をした場合下山するのがかなり

困難になると思われるので単独訪城も避けるべき。また、熊も出没するので熊除けの装備と地形図・方位磁石は必須。



      ~  今回は城跡までのルートが長く分かりずらいので訪城経路からの紹介です ~

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布上城への訪城経路                            国土地理院2万5千分の1地図使用

nunogamisiro1 (13)
布上城遠望(尖がっている山頂部)

松川村の真西、雨引山(1371m)から南に延びる長い尾根の肩のような部分が、異様に高くなってあたかも拳のように見

える所がある。その直下には伊の神霊園があり、霊園からは、頭上に被いかぶさるような、岩あらしの別名をもつ嶮峻な

ピークを仰ぐことが出来る。ここが布上城である。

この城跡は北方からの尾根と、南方の青崎の尾根とが馬蹄形に山ふところを作って合流する標高993mの地点にあり、

ここだけが急峻な台状になっている。


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城跡がある山麓へとつながる林道入り口のゲート

ゲートはシカやイノシシ・熊などからの農作物被害防止の為のゲートなので開けたら閉めましょう。

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ゲートから200mほど歩くと分岐に行きあたる。正面に熊出没注意の看板を見てビビりながら城跡のある山を目指し

分岐を左に曲がる。(林道は四駆なら走れるが、普通車は無理)


nunogamisiro1_20140930193957fa3.jpg
ダートの林道を30分ほどテクテク歩くが。。。。。。。これがかなり長い!

(途中に色々な作業道の分岐があるが、本道をとにかく歩くこと)

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城跡のある山の山麓に近づくと山麓に沿って沢が現れる。また近くに砂防堰堤が見える(この砂防堰堤が目印)

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山麓を流れる沢を渡りとにかく直登する。(道は無いので登る場所は緩い所を探して取り付く)

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傾斜がかなりキツイがとにかく尾根まで登る。

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山城へは尾根上の平坦地と急傾斜を3回ほど繰り返して行き着くが、尾根上には写真のような岩がむき出しの部分が

多くより一層の険しさを感じさせる。

このような部分も城跡へ続く尾根の防御としても取り入れられていたのだろう。


nunogamisiro1 (5)
ここは2回目のピーク手前の写真でここからは一層険しくなるが。。。。

nunogamisiro1 (7)
険しく登るのが困難な場所には過去に林業用の作業道として整備したであろう、朽ち始めた階段が造られている。

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ここに至るまでにも明確な踏み跡が尾根上には残されているので、まれに作業で登る人が居るようであり、この踏み跡を

たどれば迷うことはない。


nunogamizyouzumenn.jpg

急傾斜の尾根を3回必死に登ると、北尾根遺構部分に辿り着く。

ここまでの時間1時間30分程度歩いてきたが、眺望が開けたのはたったの1回だけ。。。。。。(汗)

眺望も無く。。。。ただ本当に。。。。。。。。。必死に登るだけ。。。。。。。。。。。疲れます。


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唯一見えた眺望。。。。。。。。。。。城が現役で木々が無かった時には大町・安曇野・松本が一望のもとに見れたであろう。

それだけでもこの城の存在する意味がわかる気もするが。。。。。。。今はほぼ見れません。


            ~  北尾根遺構 ~

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布上城全体遺構図

nunogamizyou93 (2)
北尾根遺構最初の堀切

城跡の主要部がある嶮峻な山頂から発生する北尾根の最初の弛みに北尾根遺構が存在する。

北尾根遺構には2本の堀切と主要部へ続く急傾斜部分にある段郭からなっている。

写真は北尾根遺構最初の堀切であるが、小規模で明確に掘り切っていないが、遮断線程度にはなるであろう。


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北尾根遺構2本目の堀切を見る。

この堀切も小規模であるが、1本目とは違い明確に尾根を掘り切っているのが分かる。


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尾根上は平坦になっており、ここも削平し郭として使用していたことが分かる。

長野県埋蔵文化財センターの研究紀要では、この布上城は2期にわたって改修されながら使用されたのではないか。

と推測している。(この内容は2回目以降に紹介します。)

この北尾根遺構は、主要部の遺構に比べ、堀切が小規模で小さな郭を斜面に構築されていることから、この北尾根遺構

は1期目の古い時期の遺構で、2期目には改修されずにそのまま放置されたのではないだろうか。


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北尾根から主要部遺構へは、比高約40mを一気に急斜面を登るが、その斜面には小規模な削平地が構築されている。

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急斜面に段々に構築されている削平地

主要部への斜面を登りづらくする防御施設であろう。

nunogamizyou93 (5)
中には削平地が大きく明確な物もみられる。

nunogamizyou93 (3)

すでに力尽きる寸前。。。。。。。で最後の急傾斜を見た時にはもう無理。。。。。。。と思ったその時!

なんとまた助け船の階段が現れ何とか城跡に着くことが出来ました。。。。。。。有難かった。


っとまあ。。。。前章として訪城路と北尾根遺構をあまり書くことが無かったのでサラサラっと流してきましたが、

次回はちゃんと力を入れて主要部遺構を紹介していきますので、どうぞお付き合いください。

それにしてもほんと~~~に辛いですよ!ここまで。
行かれる方は、気を付けてくださいね。
  1. 2014/09/30(火) 19:13:17|
  2. 松川村
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松本市  平瀬本城

多くの戦士が滅んだ城

zinnbata0975 (3)
平瀬城郭群の配置図                         国土地理院2万5千分の1地図使用

所在地・・・・・松本市島内                                 訪城時間・・・・・20~30分

危険度・・・・★★☆☆☆(冬季は狩猟のためにハンターが入るので注意が必要!)

訪城目印・・・・・国道19号沿いに城址入り口の看板がある


訪城日・・・・2008年12日8日・2014年3月27日(写真は2回の訪城時の写真を混ぜて使用)

zinnbata0975.jpg
この図面を参考に紹介していきます。

~ 出丸(出郭) ~

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登城路を登って行くと左手に明らかに人の手によって構築されたと分かるシルエットが見えてくる。

現在の松本市北部と安曇野市周辺にあった住吉庄は、幕命により小笠原氏の所領となり住吉庄に勢力を持っていた西牧

氏や平瀬氏などは小笠原氏の支配下に組み込まれていったようで、永享12年(1440)に下野国で起った結城合戦では

守護小笠原政康は犬甘氏や平瀬氏・西牧氏を率いて出陣している。


hirasehonnzyou1 (7)
出郭ながら郭の規模は大きく、削平も丁寧にされており三段からなっている。

文明3年(1481)大塔合戦いらい『古敵当敵』(昔も今も敵)の間柄であった仁科氏(此の時の当主は長朝)が穂高で戦い

小笠原氏が仁科氏を破り、仁科氏を配下に加える事に成功し婚姻関係をもって懐柔するとともに仁科一族を古厩・堀金・

鳥羽・吉野・熊倉等への進出を認め、これらの地域に進出した仁科一族の丸山氏らを平瀬氏の寄子として組み込んだ。


hirasehonnzyou1 (5)
この出郭の構築された意義といえば、真下に存在する犀乗沢沿いを通過する山田道を対岸に写っている平瀬南城と監視

をしもし敵が通過すれば協力して挟撃する役目を担っていたのであろう。


平瀬城が天文20年に武田氏により落城し、城主ら204人が討ち死にしたがこの名に寄子である丸山氏が含まれていた。

『吉野の堀屋敷にいた丸山丹後守家の系譜』によると、丸山肥後守 → 丸山兵庫守 → 丸山丹後守 となっていて、

丸山氏は生坂村丸山の出身で兵庫守の時に平瀬氏の寄子となっている。

丸山兵庫守が吉野に移住した時期は現在豊科中心部にある法蔵寺が平瀬養老坂の寺坂から現在地に移動する永正3年

(1506)以前(明応年間か?)と寺伝では伝えている。


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出郭から登山道を辿ると、山頂にある本郭の虎口に至る。

この登山道は往時の城道を世襲しているようで、虎口にいたる道の周囲には小規模な削平地が見られ、虎口も城内側が

優位になるように坂虎口となっていて、小規模ながら土塁と石積みが見られて防御を厳重にしている。


丸山氏の系譜では、兵庫守の事績として『明応年間中、平瀬城を建て入部、武田と桔梗ヶ原で戦って討死』とあるが、平

瀬氏の寄子が平瀬氏の城を築くはずはなく築城か改築を手伝い、城番として平瀬城に入っていたものと思われる。

また、桔梗ヶ原で討死は天文20年の平瀬城の落城での討死の間違えであると思われる。

兵庫守の子である丹後守には、『平瀬城に居て永正年間中法蔵寺を吉野郷に創建、天文21年桔梗ヶ原の戦いに敗れて

和州(大阪)へ退去、永禄5年卒』と書かれており、これも丹後守が平瀬城の城番をし、天文20年(21年は間違え)に平瀬

城の落城に遭い父親の兵庫守と違い生き抜いて和州(大阪)へ落ち延び永禄5年(1562)に亡くなったものと考えられる。

(後に書くが、丹後守の子政勝【政勝も後に丹後守を名乗ったようである】は府中小笠原氏の元に戻っている。)


~ 郭① ~

hirasehonnzyou01 (3)
虎口を入った郭①を見る。

郭①は高さ1.5mほどの土塁により東郭と西郭に分けられている。また、土塁には石積みのような物がみられるが往時の

石積みか近世になって郭①は開墾されたようであるのでその時に出た石を積んだのかは判断が出来ない。


丸山氏が平瀬城の落城時に何故城内にいたかといえば、もちろん丸山氏が平瀬氏の寄子であったからであるが、(寄子

とは小笠原氏に従ったが丸山氏の管理を平瀬氏に任せ、平瀬氏の配下として丸山氏には小笠原氏同様に平瀬氏に忠勤

をはげみなさいよ。。。という感じ。)

新説である平城の平瀬城に落城することが分かっているのに本拠防衛を思う平瀬氏が直属の部下と籠るのは分かるが、

寄子で本拠地に戻れば領主となる丸山氏達が本家の仁科氏が武田氏に従っているのにわざわざ平瀬氏に付き合って滅

亡する道を選ぶのであろうか?

(この寄子の中で飯田右馬允というものがいるが、この飯田氏も平瀬城攻めには平瀬城に丸山氏同様に籠城したはずで

あるが、丸山氏が討ち死にしたり逃れて和州に逃れているのに、飯田氏は平瀬城落城後も本拠地の飯田館に居る事を

考えると寄子の中でも平瀬城攻撃前に武田氏に降った者がいる可能性が考えられる。)


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郭①の土塁を隔てた西側の郭は2段に分かれており、所々の縁部に土塁跡と思われるような高まりが見られる

『豊科町誌」には、武田軍の攻撃の主力は大手(前面)の方向から行われたものと思われるが、一部の兵力は背後の

神沢・山田方面から犀川丘陵の峰伝いに来襲し、搦手から攻撃をくわえたように思われる。そして徹底的にダメージを与え

ており204人の打ち取りとなったもののようである。

『二木家記』も『犬甘の城(犬養山)を馬場民部甲斐国よりなあkりある者ども、その上信州衆晴信方にまかり成り、一手に

なって攻め落とし、それより平瀬の城へ取り掛かり攻め落とし、平瀬殿も城にて打ち死に申され候、人数多く討ち死に仕り

候』としている。


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西の郭の上段から下段の郭を見下ろす。

山家氏などはその居住地(松本市入山辺)からして搦手からの攻撃軍に加わったようで次のような感状が残っている。

『今度平瀬城において頸壱つ、平瀬八郎左衛門打ち捕らるの条、戦功の至り、一段と感じ入り候、然らば弥々忠信を抽ん

でらるべく候、恐々謹言      天文廿亥辛年十月廿四日    晴信       山家左馬允殿

とあり、前回紹介した陣畑や口伝も本当のことを伝えていたのではないだろうか


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郭①西郭の下段北側には、尾根先端部に設けられている規模の大きな帯郭もしくは本郭の一部か(郭②)。。。に降りる為の虎口が設けられている。

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尾根の先端部から登ってくる敵を最初に迎撃すべく構築された郭で、ここを馬出としている研究者もいるが、ここからの

出撃路があるようには思えず、もし尾根先端から攻められたら・・・・という恐れに対する防御施設であろうと思われる。


平瀬氏や部下・寄子達は武田軍が攻めてくるので平瀬城に籠り犀川方面から攻めてきたら、南城と共同で戦闘を行い

戦況があやしくなったら尾根を伝って逃げようと考えていたが、武田軍が軍をニ分して尾根伝いの山田方面からも攻めか

けてきてしまった為に逃げ場を失い全滅覚悟で戦う羽目になり204人もの戦死者を出してしまったのであろう。

当時の平瀬城は郭①②と何本かの堀切程度の小城であったと思われ、武田軍との兵力差を考えれば1日での落城は

よく頑張ったほうなのではないだろうか。


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郭①から見た眺望

この眺望を見ればこの城の役割が良く分かるであろう。


山城の位置は、平瀬氏の本拠である平瀬郷からは確かに場所が偏っているが、寄子達のいる現在の豊科周辺までも

管理しなければいけなかったと考えれば、この山城からは平瀬郷・豊科などが一望でき管理には都合がよく平瀬氏の

本拠が平瀬本城である可能性が強いのではないだろうか。


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郭①の東郭は、城内で一番広いもので城主や番兵の居住空間であったものと思われる。

過去に耕作がされたと言われているので、往時同様になっていたかは分からないが、尾根続き側の郭端には土塁が残り

南側郭端には石積みが残されいる。(石積みに関しては石塚のようなものや土塁壁面・郭端などに見られるが、耕作時に

でた石を積んだだけという可能性も捨てきれない。)


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郭①尾根続き側に残存する土塁上にある鎮魂碑を見る。(碑の裏面には平瀬城陣歿者之霊と刻まれている。)

この鎮魂碑は、城下の下田で防火用水の池を掘ったところ、石で囲んだ墓の中から首が5つと銭が出て来たので、城山に

鎮魂碑を建てて現在も慰霊祭をしているようである。


寄子として平瀬城籠城で父親の兵庫守を亡くした丹後守の子(丹後守の子は政勝といい、天文10年出生で父と共に和州

に退去して信長に出仕し天正5年に信州に還住して天正10年に信長より吉野郷の禁制をうけ信長滅亡後は小笠原氏の

配下となり天正18年小笠原家より感状をもらう。後に石川家の代官となり元和元年9月8日卒す)

は天正18年(1590)に豊臣秀吉が小田原の北条討伐を始めると、小笠原貞政は秀吉の命により出陣し丸山丹後守

(政勝)は留守を命じられており、この時にこれまで平瀬氏に対して代々の忠節によって寺所・吉野両郷の中に50貫文の

地を出し置くので、いよいよ戦功を抽きんじてほしいという文書を小笠原貞政からもらっている。


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本郭から見下ろした堀切(籔だけど。。。)

本郭と堀①との低さが約7~8mほどの高さで、切岸が鋭く防御が厳しくなっている。


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堀①を見る。

堀①は幅が広いものの深さが無く、本郭の防御は切岸に頼った造りになっていて、このあたりは平瀬氏時代にもこのよう

なものであったと思われる。


『追って今度陣中つゞけの儀、油断有るべからず候、以上     平瀬代々の忠節浅からず候、然らば別して奉公せしむ

べきの旨候の間、吉野・寺所両郷において、合して五拾貫文の地を出し置き候、この旨をもって戦功を抽きんずべき事

肝要候者なり、仍って件の如し       天正十八年正月廿五日 (黒印)       丸山丹後守殿』

とある。

丸山氏以外にも平瀬氏の寄子として考えられる者として、熊倉の代官である丸山出雲、下野・鳥羽の丸山管三、飯田の

飯田右馬允、竹内筑後、中曽根の四郎右衛門尉などが見られる。


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本郭から郭③の間の尾根には大小4本の堀切と複数の竪掘が掘られており、執拗に防御を固めている。

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尾根の斜面には美しい竪掘のシルエットを見る事が出来る。

城下の下田には逢沢姓が多いが、この逢沢氏の故地は甲州のようで移住を命じられてきたものらしく、『高白斎記』による

と平瀬城攻略後『二十八日に午刻巳の方向に向かって平瀬城を割り、その上鍬立、(中略)十日原美濃守を平瀬に在城

仰せつけらる』とあり、小岩嶽城攻めの前線基地として逢沢氏らはその配下の在城衆であったものと思われる。


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郭③は尾根の形状に沿って不規則な三角形をしている。

ここの郭は郭④から①の間での中間の防御拠点としての役割と城兵の居住地との郭であったと考えられる。

この郭の特徴として郭の北側下に横掘が構築されており、南城との共通性を見る事が出来る。


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郭③の北側下にある横掘を見る。

横掘はほぼ埋まってしまっているが一部は残存し、横掘の端の両側は竪掘として落とされている。


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横掘から落とされた竪掘を見る。

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郭③から見下ろした堀⑤ 

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堀⑤を横から見る。

堀⑤は上幅20m・深さ10m程の城内最大の堀切で両側を竪掘としておとしている。

この先には郭④と堀⑥があるが、この堀が尾根続きで最大の防御施設として構築され、ここで敵を食い止めるという、

強い意志を窺わせる巨大なものとなっている。


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郭④を搦手側から見る。

郭④は高さ1m程の土塁で周囲を囲むように造られた郭で、搦手側に対する馬出ではないかと考えられている。

この馬出説を否定する説もあるが、武田氏が搦手側の山田道から攻めてこの平瀬城を落としたのが本当であれば、落城

させた武田氏・その事実を知っている小笠原氏がこの弱点を放置しておく筈はなく、ここに防御拠点・出撃拠点を設けるの

は自然なことであったのではないだろうか。


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堀⑥の竪掘を見る

城内最後の防御施設である堀⑥は、掘り切らずに土橋としており、防御のしやすさと出撃のしやすさを兼ね備えたように

なっていて、竪掘部分は防御のために幅が大きくなっていて、敵の斜面移動を警戒している。



以上、平瀬城を長々と(汗)紹介してきたがいかがだったでしょうか。

平瀬城と平瀬南城との共通性を見出すことが出来、武田氏の改修の痕跡は窺い知れず分かるのは小笠原氏の

改修が大きくされたであろうことであろうか。

山田道を敵に使用されれば、簡単に岡田方面に抜ける事が出来直接に府中(深志)に到達してしまう事から、小笠原氏

が重要視したものであろう。

武田氏が攻め落とした平瀬城はどこか?。。。。。。。。。。。。。。。証明する事は難しいであろう。



~ 参考文献 ~

信濃の山城と館   松本・塩尻・筑摩編          (宮坂 武男)

豊科町誌                            (豊科町誌編纂委員会)
  1. 2014/09/10(水) 20:02:29|
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発掘調査が始まっています

謎の解明は出来るのか要期待!

殿村遺跡の発掘調査が始まっています。

平成20~21年の発掘調査により15世紀の石積が発見され話題となった殿村遺跡の継続調査が開始されています。
元々、殿村遺跡は、戦国期に会田周辺を治めた会田氏の居館があった場所であろうとされた場所で古地図でも殿村=会田氏居館跡と記載されていました。

結果として15世紀の立派な石積や柱穴などと共に宗教色の濃い遺物は見つかり、寺院遺構では。。。。。
という流れになっています。

しかし、殿村という地名から、周辺には会田氏の居館の遺構が見つかるのではないかという期待と、この大規模な遺跡が

どのような性格を持ったものなのかを解明するという性格を持った調査さが続いています。(また、遺跡範囲の確定の調査と

いう性格も)


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今回はこの殿村遺跡がどこまでの範囲にわたって広がっているのかといいう確認調査が行われています。

今年度の調査は、広田寺の駐車場近くで行われており石列等が見つかっています。

この調査後は、会田小学校跡の校庭で12月中旬まで行われる予定らしいので是非興味のある方は見学して見て下さい。

この調査は29年度まで行われますので期待大ですね。

*なお関連して行われている虚空蔵山城の水の手の調査は今期は行われないそうです。



ついに解明されるか府中小笠原氏の初期の居館

hakkutuzyouhou 1

井川城と言えば。。。。府中小笠原氏が、鈴岡・松尾・府中の三家に分かれた時に府中小笠原氏の初期の居館と

して構築され林の居館が設けられるまで本拠とされた遺跡で、櫓台跡と称する土地盛りが残されていただけの城

址でした。

今回、市立の保育園が建設されると云う事で事前調査が行われ自然の沼地を利用したであろう外郭や堀跡・門跡などがみつかっています。

現在は本郭と見られる部分(伝櫓台と人工的に流れを変えたと見られる水路との間)の調査が開始されました。

どんな遺構が発見されるか分かりませんが、遺跡が破壊されることは残念ですが府中小笠原氏の初期の居館が

どのようなものであったか解明されることに期待されます。

興味がある方は訪れてみてはいかがでしょうか。 



                  ~ 発掘現場を訪れる際の注意! ~

①発掘現場は穴や重要な機材がありますので必ず、調査の方への挨拶や見学の許可を取りましょう


②調査中の遺構は、現場の方が一所懸命に調査・研究しているものです。必ず写真を撮ることの許可を取りましょう。


③許可なくブログやホームページへの写真や発掘で見つかった遺構の写真を載せるのはやめましょう。

調査は調査員の方が調査の成果を総括して結果を出すのもで、許可なく結果をだすということはその方々の実績の横取りと同や間違った結果を公開する事になります。発掘の成果は現場見学会や報告書が出された後に公開するべきで発掘中に許可なく公開をするべきではないと思います。


>  ④必ずお礼を言って帰りましょう。

調査の方々は忙しい仕事中に説明や見学をさせてくれています。

感謝の気持ちが必要です。必ずお礼を言いましょうね。



調査員の方々はとても親切で色々教えてくれますが、見学をする方のマナーがとても大事です。

調査員の方の迷惑になるような行為は絶対しないで、お互い気持ち良い交流が出来るように努めましょう。
  1. 2014/09/03(水) 19:23:49|
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松本市   伝武田信玄陣場跡

この口伝は本当の事を伝えているのか。。。。

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伝武田信玄陣場跡と平瀬城砦群                国土地理院2万5千分の1地図使用

所在地・・・・松本市島内                                 訪城時間・・・・・3分

危険度・・・・★☆☆☆☆(一応、バリケードがあるので地元の方の了承が必要


この武田信玄陣場跡は、天文20年に小笠原領内で孤軍奮闘していた平瀬城を武田軍がここに軍を置き攻めたと伝わる

場所で、古文書や文献には出てこない。

ただ地元の口伝として伝わったようで自分が知ったのは信濃史学会が発行している「信濃」の中の「小原 稔」氏が投稿

した論文「長野県松本市城山丘陵の砦伝説について」を読んでいて。。。。。。!!!!

こんな話は聞いたことが無い!  これが本当であれば新説は吹っ飛んでしまうのではないか。。。。。

と思い調査してきた事を書いて行きたいと思います。


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陣場配置図

この陣場跡説が真実味があるのは、この陣場跡から北西尾根を下れば平瀬南城へ直接通じていることと、平瀬本城を

見下ろす位置にあること、岡田から通じる山田道を辿れば簡単に辿り着く位置にあることにある。


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陣場跡へ通じる道(入り口には簡単なバリケードがあるので近所の方に許可をもらおう)

山田道は蟻ヶ崎にある城山公園(犬甘城)から豊科カントリークラブのある尾根上を通過していたようで、この道を辿れば

(現在は車道などで分断されているが、アルプス公園周辺の遊歩道として残存)この尾根にも辿り着くことが出来る。


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現在は尾根を先端まで車道が開設されてしまい往古の状態は分からないが、道は尾根上を通っていたのであろう。

道の正面に見えるのは信玄が陣を敷いた御所山。


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陣畑遠望(尾根先端部)

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地元の方が建てられた陣畑跡の標柱

標柱の側面には「天文20年、武田信玄が平瀬城を攻めた時の陣場跡」との説明が書かれている。

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広大な陣跡

平成5年時点では、畑地であったようであるが、現状は小石などが交じる雑種地で籔となっている。

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陣畑と御所山の間には堀切状に沢が入っていおり、ここに自然地形を利用した防御施設があった可能性がある。

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沢の中を下ると、陣畑側には鋭い切岸が見られ畑地としてだけの造成とは考えられない。

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また、堀状の沢には写真のような石列が見られ、この堀状遺構がかつて道として使われていたことをうかがわせる。

この道について気になる記事が信濃にあり「神社裏(松隠寺の上には八滝神社がある)の急斜面をさらに登ったところ、

畑と思われる平坦地があった。位置から考えてかつて松隠寺と陣畑もくは平瀬南城へ通じる道があったのかも知れない」

とある。この記事にある道がこの石列部分がその一部ではないだろうか。

と考えればこの陣畑から平瀬南城へも通じる道があってもおかしくないのである。


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陣畑から見た新説の平瀬氏館跡。。。。どうみてもここから攻めるのは無理があるだろう。

そういへば何かの記事で、山田集落の人は尾根伝いに平瀬南城へ行っていたとあったが、それがこの山間部を巡る

山道を言っているのであり、武田軍もこの道を使用して攻めたのではないかと考えるが。。。。。


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陣畑の北側・西側には平瀬南城からの反撃に備えるように段郭が巡り、大きい所で約3mの高さがあり厳重な備えと

なっておりここは昔のままの遺構であろう。南側は車道により破壊されているが、急傾斜なために遺構は元々なかった

のではないかと考える。


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さらに平瀬南城のある尾根に向かって緩やかな傾斜が残る平坦地があり、大軍の駐屯が可能である。

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陣畑から信玄が陣したと伝わる御所山を見る。

御所山は車道により側面を大きく削られており、往古はどのような形であったかは分からない。


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ピークの一部、陣畑側には一段の段差が設けられている。

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伝信玄陣跡を見る。

山頂部は広い平坦地となっているが、人工ではなく自然のままのように感じる。平瀬城が1日で落城してしまったので

このようなものでもよかったのか分からないが、やはり一番眺望は利く場所である。


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御所山から見た陣畑

世間には出ていない口伝を紹介してきましたが、皆様はどう感じられたでしょうか。

古道の関係・平瀬南城との尾根続きの立地・新説平瀬氏居館跡との距離・残存遺構などを見てきましたが、結構ここから

武田氏が平瀬城を攻めたという説も可能性があるのではないだろうか。

これからの研究者の方がたにはこの陣畑にも触れて、解明してしていっていただけたらうれしいな。


zinnbata3 (3)
陣畑・御所山と平瀬城の位置がわかる遠望写真


~  参考文献 ~

信濃 第61巻1号  「長野県松本市城山丘陵の砦伝説について」   小原 稔
  1. 2014/08/01(金) 17:16:43|
  2. 松本市
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松本市  平瀬南城

搦め手尾根を切り刻んだ竪掘は何を意識したものか。。。。

所在地・・・・松本市島内下平瀬下田                      訪城時間・・・・・犀乗沢入り口より30分

危険度・・・・★★★★☆(登り口滑落注意!)

別 名・・・・上平瀬城(信濃戦国時代史に記載)


訪城日・・・・2008年12月20日・2010年1月10日

hirase0101.jpg
平瀬城砦群と周辺の沢名・旧道・陣地伝承地

平瀬南城はかつて犀乗沢の北側山頂にある平瀬本城(北城)の支城として構築され平瀬氏により整備・管理され、

犀川の水運や犀乗沢沿いを通過する山田道を監視する為に存在してきたとされていた。

しかし、近年は天文20年に武田氏に攻められた平瀬城が、下平瀬にある川合鶴宮八幡社の境内がそれではないかという

新説が出されてきた。これは神社境内がかつての平瀬郷の中心地で千国街道にも近く、平瀬氏の本拠であった為に城に

籠った者204人(200余人とも)もの人たちが必死で抵抗し討ち死にしたのであろうとするもので、また山城の平瀬城では

狭く200人以上もの大勢が籠れない。平瀬城落城後に信玄が安曇郡攻略のための拠点として使用しており、攻める為に

いちいち山を上り下りしなければならず不便である。この二つを満たすのも神社境内にあった居館を改修した平城の平瀬

城の方が都合が良いというものである。

hirase3 (20)
犀乗沢が北沢と南沢に分岐する部分(平瀬城への看板があり)の突当たりが、旧山田道でこの分岐部分が平瀬本城と平

瀬南城への道の分岐でもある。


以前からこの山城の平瀬城の根小屋や平瀬氏の居館は麓の下田にあったと考えられてきたが、新説ではこれを否定し

下平瀬の川合鶴宮八幡社が居館であるとしてきた。これにより居館と山城は距離が大きく離れてしまい山城は平瀬氏の

要害ではないという事になり社地の居館が大きく改修され平城となり平瀬城と呼ばれたとされる。

hirase3 (15)
南沢最初の砂防ダム手前の斜面を直登する。(道は無い。)

hirase3 (16)
沢に接している部分の斜面は崖状になっており、その後も急斜面で道が無いので、滑落に注意が必要です。

では山城は誰のものであったのか。。。。。笹本氏や三島氏によると山城の平瀬城は、根小屋式の山城ではなく山城単独

に構築されたもので、犀川の水運・街道の監視のみの役割をもったただの押さえの城で、武田氏滅亡後に上杉氏に備え

て小笠原貞慶が築いたものではないかとしている。


古文書に見られる平瀬南城はどのように伝えているのだろうか。

「信府統記」には、「(前略)、城主分明ナラス、【古平瀬和泉守信義ト云フ人アリ、此辺ヲ領セルニヤ、松隠寺ヲ開基シテ、

今ニ法名モ残レリ、是犬養ノ一類タリシ、平瀬氏ナラン、右ノ(*平瀬本城のこと)両城モ彼ノ要害ナルへシ、其前後幾代ト云フ

コト分明ニ知レス、(後略)。】

「長野県町村誌〈中南信編〉」には、【村の艮、平瀬山、犀乗沢の南方にあり。東西十五間、南北二十間、回字形をなす。

往古平瀬和泉守居住せし由、土俗言伝ふと雖も、城名及其興廃、原由を詳にせず。】

hirase2 (3)
この図面に沿って紹介していきます。

「東筑摩郡誌」には、【本城の平東西八間、南北十五間、南北に堀切四通あり。往古仁科の分家犬飼氏の居城なりと

いふ。天文年間犬飼大炊介政徳爰に居る。天文十八年(*二十年の間違い)の秋武田の武将馬場信房来り囲む。

政徳既に中塔城に遁れ、城代戦没して城陥れり。】

とあり犬甘氏や犬甘氏一族の平瀬氏に関係する城跡であると伝えているのである。


hirase3 (3)
郭③を見る。

郭③は笹藪で詳細は見づらくなっているが、傾斜があり削平もされていないが手を加えたような跡が僅かに感じられる

ことから郭としたが、この尾根先が大手と思われるのでなんだかの防御施設があったものと思われる。


ここまで調べた結果、有名な研究者の方々はこの城跡は小笠原氏の築城で固まって来ているようであるが、伝承は本当

に間違った事を伝えているのだろうか?

そもそも。。。。。本当にこの時代に自分たちの兵力を大きく上回る敵が攻めてきて、平城とされる平瀬城に立て籠もるの

だろうか??・小笠原氏の一族で府中深志城を任されていた坂西氏ですら武田氏に降服しているのに小笠原氏の一族で

もない平瀬氏が何故防御が脆弱である平城に全滅覚悟で籠城するのであろうか?


hirase01 (2)
郭②は城内で2番目に大きな郭で、削平もしっかりされており大手側から攻めてくる敵に備えている。

郭の規模は15×6mの尾根の形を使用した細長い形状となっている。


hirase01 (4)
郭②から見た本郭

本郭は郭②から来るであろう敵に備え、切岸と土塁で防御を固めている。


この新説に関して疑問が3つほど湧いてくるのでここで挙げてみる。。。。。。。

①平瀬城が200人近くが籠るには狭いとされているが、その後に落城した小岩嶽城は落城以前に宿城が放火されていて

麓の本城と山上の要害のみとなっていたにもかかわらず、「妙法寺記」に書かれているが【(前略)、小岩嶽と申す要害を

責落しめされ候、打取頭5百余人、足弱取候事数を知らず候】と数に誇張があったとしても平瀬城の数倍の人が籠って

いたのに本当にそんなに多くの籠っていたのかの疑問に触れていないのが不思議である。特に要害部分の狭さは

平瀬城以上である。


hirase90 (2)
郭①(本郭)を見る。

hirase90 (6)
郭①に付属する土塁を見る。

本郭には東側(南沢側)を除いて土塁が構築されており、南側の堀切①に面した土塁が一番高くなっている。

なお、土塁の残存状況は良くなく西側土塁(国道19号側)は所々低くなっていて波打った感じになってしまっている。

形状は24×16.5mの楕円形である。


②平瀬城の城主とされる平瀬氏の開基である松隠寺は、平瀬氏の本拠とする河合鶴宮八幡社の館跡より山城の平瀬城

の方が近く、犀川をも挟んでおり遠すぎる。


③平瀬南城の尾根続きには、平瀬城を攻めた時に武田氏が陣を構えたと伝わる陣畑・御所山が存在しこれがもし本当で

あれば神社の居館を攻めるには高すぎて遠すぎる。(陣畑は近いうちに紹介します)

以上の3つであるが素人である自分には到底解ける疑問ではないが。。。。。一応挙げてみた。

どなたかこの疑問を解消していただける方はいるだろうか。。。。


hirase4 (3)
堀切①を横から見る。

hirase8 (9)
郭①の東側を防備する横掘

堀切①は竪掘として落とされる部分が角度を変え、郭①の東側切岸下を横掘となる。

横掘の先端はまた竪掘なり斜面を下っている。この横掘部分は平瀬本城にも一部見られる手法で築城者の共通性を

窺うことが出来る。


hirase5 (2)
城内最大の規模を有する堀切②を見る。

hirase324 (2)
堀切⑤を見る。

平瀬南城の搦め手側の尾根は大小5本の堀切により刻まれており、この城の防御の意識が搦め手側に向けられていた

ことが分かる。また、南沢側の傾斜が緩いために長大な竪掘となり最終的にはこれらの竪掘がまとまるという小笠原氏

の築城手法に多く見られる形となっている。


hirase324 (4)
南沢側中腹から見上げた堀切④⑤とそれぞれの竪掘

hirase324 (3)
堀切②③④⑤の竪掘が合流する部分を見下ろす。

私見として、もしこの山城の平瀬城が武田氏の攻めたものだとすれば平瀬氏が籠った頃には小規模な砦であり、武田氏

が後方の山稜を通過する山田道を使用して侵攻し、伝承にある陣畑・御所山を利用して平瀬南城を尾根続きから攻め下り

南城を占拠してこれを平瀬本城を攻める為の向城として活用した。


hirase5 (9)
堀切②③の堀切と竪掘を見上げる。

hirase5 (7)
竪掘①と堀切②③から落とされた竪掘の間には土塁を伴った郭が南沢から登ってくる敵に備えている。

平瀬本城は、犀乗沢を中を通る山田道側(大手)と山稜を通る山田道(搦め手)とから攻められた本城にいた城兵たちは

逃げる事が出来ずに全滅してしまった。

後に小笠原貞慶がこの平瀬城砦群を改修する際に、平瀬城の搦め手から攻められ落城した弱点を克服する為に、尾根

続きを堀切で切り刻む手法を使用した。。。。。。。。。。というのはいかがでしょうか。


hirase012 (2)

hirase012.jpg
堀切⑤から落ちて来た竪掘の脇に削平された場所があり、水がたまっている。これが水の手の一つとおもわれるが、

南沢との比高差もほぼ無いので、沢から水を汲んだ方が早い気も。。。。。。


hirase5 (10)
斜面に刻まれた竪掘。。。。。惚れ惚れします。。。。!

hirase3 (6)
平瀬南城から平瀬本城を遠望する。

私見を前提とすると平瀬南城が武田氏に攻められ落城する場面や南城から後方山頂にある陣畑にかけて大量の武田兵

が駐屯するさまをみた本城の兵士たちは絶望のどん底に落とされたことであろう。


hirase3 (17)
平瀬南城を遠望する。

いかがだったでしょうか。

私見はあくまで素人の妄想ですので、研究家の方達の研究を否定するものではありませんのであしからず。

でも中々謎に包まれた楽しい城ですね。。。。これから研究が進むことを期待します。

次回は平瀬本城をお送りいたしますのでお楽しみに!!!


*冬季は猟師が入っていることがありますので注意が必要です。


~ 参考文献 ~

信濃 第45巻 第11号  山城平瀬城特集             (信濃史学会  平成5年)

信濃の山城                               (小穴芳実著  1988年)

信濃 第61巻 第1号  「長野県松本市城山丘陵の砦伝説について」   (小原 稔著   信濃史学会発行)

東筑摩郡誌                                (信濃教育会  1919年)

信府統記                                 (国書刊行会  平成8年)

松本市史  第ニ巻歴史編                      (松本市     平成8年)
  1. 2014/07/26(土) 00:05:15|
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